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日記949


 十一月二十七日(水) 

 この二、三日、二ヶ月余ぶりで気分のいい日が続く。もうつわりの時も過ぎたのかも知れぬ。ふしぎに気力を生じ、生活や仕事の設計をする気持になる。さしずめ生活の為、ほん訳仕事を始めようと思う。定収入を得るため進駐軍の方へ apply〔応募〕して見ようかと考えている。知っている人々の紹介はたやすく得られるが。この方が却って無責任で独立的で気持がいいのではないかと思う。倹約倹約とただ消極的な生活をするより大いに収入も得て栄養その他をよくし、来たるべき出産にそなえたいと思う。最近ろくな本もよまないが(自然科学方面は別とすれば)トマス・マンの「シータの死」では大いに文学への渇きをいやされた。それから一昨日医局からロンブロゾの Das Weib〔女〕を借りて来てよんでいる。結婚してもやはり問題は Vergeistigung〔精神化〕にあった事を今にしてしみじみ悟る。私たちの人生を単に「生活すること」のみに終わらせぬよう、この生活があくまでもより遠大な Aufgabe〔課題〕の為の培地であるように不断の vision と精進が必要である。真と善と美と。



『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』(みすず書房、pp.83-84)より。

1946年の11月27日。さいごの一行に時代を感じる。「真と善と美と」。日記947に引いた山田風太郎も「真善美」ということばを書いていた。1942年の日記だったか。知的な精神性を体現する価値観として、ある世代まで合言葉のように共有されていたのだろう。いまはとんと聞かない。真善美系YouTuberとか、いないかな。ドナルド・トランプは “truth” を掲げ政治活動をしているが、ちょっとちがう。

昨今のネット上では、「真善美」なんて言えば言うほど怪しくなる。というかそもそも、これ見よがしに掲げることばではないのかもしれない。胸中に秘めておく。私的な日記にしたためておく。そのような使い方であれば損なわれない。人前で言うことではない。

「価値観とは、必殺技だ」と考えたことがある。かめはめ波や元気玉は、ひとつの価値観なのだ。邪王炎殺黒龍波でもペガサス流星拳でもなんでもいいが、ようするに「俺の価値観をくらえ!」ってことではないか。同様に「真善美」もまた価値観であり、必殺技である。つまり、闘争を余儀なくされたときにだけ他言できる。

「価値観が合う/合わない」という話を巷間よく聞く。価値観は合わないものだとわたしは思っている。なぜなら、必殺技だから。それはたいてい、さいごの場面に色濃くあらわれる。合わせるものではない。殺るか殺られるかである。



11月27日(日)

「つばめの恩返し見に行こうかな」と母が言っていた。「すずめの戸締まりでしょ?」と指摘すると、「そうだった」とのこと。その後も「つばめのグリルじゃなくて……」「つばめの神隠しじゃなくて……」などと間違えるたびに「すずめの戸締まり」と訂正した。

正すたび、母のようにガンガン間違えられない自分のつまらなさを思う。記憶が軽く混線していて、それがそのまま出てくる。自分にも記憶違いは多々あるけれど、母のように大胆にはいかない。正そうとする意識のほうが強い。いまのところ。歳を取ればそのうち大胆になれるのだろうか。

母との関係だと、正す役を強いられるってのも大きい。むかしから。ふたりともボケていたら話が混迷を極めてしまう。しかし、わたしだってボケたい。「なんでもツッコんでくれる相方がほしい」と、たまに夢想する。好きなようにボケまくれる安心感は得がたいものだと思う。ボケたいけれど、ボケっぱなしは不安になる。


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