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日記959


 

十二月七日 今日なり。
亦無為に不真実に一日の過ぎ行けり。十一時放課ただちに講堂に集り奉祝の万才を三唱して散会。
十二時より三時まで停車場方面に散策、夜は漢文を復習し、吉田弦二郎『光落日』を読む。

今日も亦甚だ快晴、小春日和なり。漫歩の意をそそること切なりき。
正午頃京都に書を認めたれども破り棄てたり。現在の我にはかかるなまぬるき友情は不必要なればなり。筆少しもすすまず、この上書きつづくるの苦痛をおぼゆれば即ちここにて筆を投じて床につかん。只々、倦怠そのものの姿なり。

 

 

『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社、p.146)より。1925年(大正14年)12月7日。 伊東静雄、満18歳。「今日も無為に過ごした」みたいな反省は日記に書きがちだ。たぶん2022年の若者も書いていると思う。わたしもいつか書いたような気がする。日記あるある。

2022年12月7日の関東も快晴だった。漫歩の意をそそること切なりき。つまり、お散歩日和。丸い月が出ている。明日がことし最後の満月だという。

日記925 (10月1日)に書いた、脳梗塞で倒れたおじいさんから電話があった。退院したとのこと。「心配かけてすまねぇ」と酒焼けした嗄声でおっしゃる。「よかったっすわー!」と心から喜んだ。

入院中はリハビリ三昧で、退院後も「一生リハビリしなきゃなんねえ」とか。「リハビリリハビリ」と何回連呼していたかわからない。リハビリの成果でだいぶよくなったらしい。しかし、じっさいお会いするまでわからないなーと思いながら話半分で聞いていた。滑舌はよかった。来週、ご自宅に訪問する約束をして電話を切る。ちょっと安心。関係ないが、宮台真司も退院した。

夜、部屋の掃除と本の整理をしていたら、室生犀星の『女ひと』が二冊あった。新潮文庫と岩波文庫。

 

“人間はただあきらめきって死ぬというばかばかしいことはしない、生涯じゅうのものをたぐりよせてその中で賑やかに笑って、たのしいことを描けるだけ描いてから死ぬものであろう、そしてそれらは本人しか知らない秘密の中で死んでゆくのであろう。”

『随筆 女ひと』(新潮文庫、p.51)

 

ここに線が引いてある。中古で買ったものだ。前の持ち主が引いたのだろう。

 

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