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日記966


 スキー

     1980. 12. 14

 私がスキーを始めたのは昭和三十年の冬、学習院初等科四年生の頃である。
 オフクロはスポーツと全く縁のない半生をそれ迄送っていたわけだが、長男の私が身体の弱いことや東京のゴミゴミした所で生活するよりは、空気のきれいな大自然で家族団欒する方が上等であると考えて、姉、私、弟をつれて志賀高原(長野)に行ったのがものの始めである。
 当初は勿論、滑る時間より尻滑り・雪合戦・コーチの人との雪上取組合いが多く、朝日ゲレンデという今行けば平地と呼びたくなるような所を、秩父宮妃殿下がスイスイ滑っていかれるのを見て「早くああいう風に出来たらなあ!」と思っていたのを憶えている。

 初代コーチは、十九日の茶会にも来ていたコルティナ・ダンペッツォ(伊)のオリンピック銀メダル猪谷千春の親父さんである。以来、我が国のトップコーチはほぼ全員私を教えてくれていることになる。
 高等科に入った頃は、当時スキーを毎シーズン定期的にやっている者はまずいなかったから、私は少なくとも学習院のその年代ではNo.1であった。
 高等科では、御存知のように応援団長をしていたし、スキー部もなかったから家族や友人と楽しんだ程度であったが、大学入学と共にスキー部に入部し、レーサーになるか指導者になるかの二者択一をせまられたわけである。

 

 

寛仁親王『ひげの殿下日記』(小学館、p.33-34)より。1980年12月14日。これは厳密にいえば日記ではない。寛仁親王が創設され、会長を務められた福祉団体「柏朋会」の会報に寄せておられたコラム「とどのおしゃべり」をまとめた本だという。

ちゃんとしたよそ行きの文章である。あてがある。日記はもっと雑に、あてどなく書かれるものではないか。自分が日記に何をもとめているか、『ひげの殿下日記』のおかげでわかった気がする。行くあてのない彷徨だ。

 

12月14日(水)

日記957に「(わたしは)揉め事をどうにかしたい気持ちだけは強い」と書いた。しかし、たいていどうにもならない。もうどうにも止まらない。ひらきなおって山本リンダを歌うしかない。そんな思いが日に日に強まる昨今ではあるが、意外と山本リンダを歌うやり方は正攻法かもしれない。変な奴がいると、そこに注目が集まる。

つまり道化を演じること。道化が足りないのだ。道化はステージと客席とをつなぐパイプ役を果たす。主でも客でも、どちらでもない奴が必要なのだと思う。たとえば、ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ。さういふもの。

基本はなにもしない。あるいは、なにもしないに等しいことをする。まったく関係のないことを。関係がないままに関係をする。関係性の出口というか。よく三角形をイメージする。距離をとるには、三角形が必要なのではないか。対立というものはシンプルな二項に固執するところから起こりがちで、もうひとつ任意の点Pを召喚することにより三質点系の相互作用へと切り替わって二項から離陸し、より複雑な世界を描けるようになるはず。みたいな、自分でも何言ってるのかよくわからないが、そんなイメージを前々からもっている。

ひとことで言えば、ぐるぐるまわること。これが何より重要ではないか。すくなくとも3点経由地がないと、ぐるぐるまわることはできない。こっちはわかりやすいと思う。2点ではまわれない。「距離をとる」は、「まわれるようになる」と言い換えてもいい。出会うのではない。近づくな。ぶつかるな。うまくすれ違え。すなわち、まわること。わたしのまわりを、あなたのまわりを。それぞれ勝手にまわればいい。迷わずまわれ。まわればわかるさ。それが和平への道だと思う。


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