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日記番外編 S.S.S.S.

 

日記954で「またの日に感想を」と書いた公演の感想です。「あとで書く」はたいてい書かないのだけれど、書けてよかった。

 

 

 

 

12月2日(金)

新大久保のR’sアートコートで、「S.S.S.S.」というコンテンポラリー・ダンスの公演を観ました。ダンサーは坂本貫太、柴田和、石山雄三の3人。公式サイトから宣伝文をコピペします。

https://www.info-api.com/ssss.html

 

ミニマル・ミュージックで踊る。

「S.S.S.S.」とは異なりますが、連想するのは以下の動画です。「コンテンポラリー・ダンスってなんぞ?」という方もいるかと思うので、イメージの足がかりとして載っけます。わたしはどちらかといえば、「なんぞ?」側の人間です。




スティーヴ・ライヒの「Come Out」で踊るふたりの女性。Rosas というベルギーのコンテンポラリー・ダンス・カンパニーの作品。ちょっと逸れるけれど、わたしは「Come Out」を聴いているとだんだん眠くなってしまいます。催眠効果があると思う。心地よい。

「S.S.S.S.」の会場でもウトウトするお客さんが散見されて、それもわかるよ、と生暖かい目で眺めていました。作品がつまらなかったとか、そういうことではありません。たぶん生理的に仕方がない。短い周期のループって、気持ちよくなりやすいから。暖房が効いてあたたかいと、よけいに。食後だとしたら、なおのこと(午後7時から開演でした)。

ステージとは直接関係のない感想ですが、終盤CRZKNYの曲がズドーンときた瞬間、ウトウト気味のお客さんが一斉に「ハッ!」と顔をあげた、その一体感はなんかグッとくるものがありました。「キター!」みたいな。

ループで気持ちよくなる方向には、拡散と収束のふたつがあるように思います。ノイジーなループは拡散的に空間が満たされる感じです。とらえどころがなく、ぼんやり気持ちよくなる。収束方向は、たとえばEDM系のぶち上がるやつ。わかりやすく規則的で、一定の規則にもとづいて空間が“ひとつ”になる。覚醒的な気持ちよさ。

アフリカ南部のクン・サン族は、人間関係に不和が生じると音楽を鳴らし単調な踊りをひたすら反復してトランス状態を作り出すそうです。たしか、ロビン・ダンバーの本に書いてあったはず(うろ覚え)。これはおそらくEDMでぶち上がる感じに近い集団のまとめ方でしょう。

 

「S.S.S.S.」に戻ります。

ダンスと、その場のノイズから生み出されるミニマル・ミュージックの掛け合わせは、図式的に整理するなら、コントローラブルなもの(ダンス)とアンコントローラブルなもの(即興ノイズ)の掛け合わせといえそうです。規則性と不規則性を同時に走らせる。

で、宣伝文の「暴力」というのは基本的にアンコントローラブルな不規則性を指すのだと思います。わかりやすい暴力。ここでわたしが思い出すのは、精神科医・中井久夫のことばです。『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)より引用します。

 

  回復にはいろいろな段階があります。山の頂上は精神運動性興奮状態。コントロールができない状態です。しょっちゅう興奮したり暴れている患者さんがいないわけではない。次が幻覚・妄想状態。その次に心身症。いま言った脱毛症だとか下痢や便秘を繰り返している患者さんです。そしていちばん麓には、回復初期で非常に疲れている患者さんたちがいる。
 じつはいちばん上の精神運動性興奮の時期が、エネルギーがもっとも低い時期じゃないかと私は思います。まとまった行動ができなくて、ただ興奮するというのは、まとめるエネルギーがないというか要らないということです。自分の“知情意”をまとめていく回復途中のほうが大きなエネルギーが必要なんですね。それに比べれば、そのへんの物を壊すようなエネルギーはたいしたことないと思いませんか。(pp.147-148)

 

「暴れるのはエネルギーがないから」という発想。「暴れるのはエネルギーがあり余っているから」と見てしまいがちですが、そうではないのです。エネルギーが低いと、コントロールが効かなくなる。

ダンスは“知情意”をこれでもかとまとめ上げ全身で表現する芸術だと思います。そのぶん、めっちゃエネルギーを使う。「意識の芸術」と、いつか書きました(均一の無、個別の音、意識の芸術 SHGZR-0dB)。体のコントロールを基礎とするもの。

「S.S.S.S.」でわたしがおもしろく感じたのは、どうなるかわからないライブの荒っぽさと「つくる」という意識のせめぎあいです。どこでつまづいてもおかしくない、アクシデンタルな仕掛けとダンサーたちが共存する。

この観点から見て、もっとも「おお~」と感じたのは柴田さんがぐちゃぐちゃに絡まったマイクコードを頭からかぶせられる場面でした。それでも体がもつれなかった。あんなことされたら、体の動きもぐちゃぐちゃになっておかしくないと思う。練習したのでしょうが、あの状況でダンサーとしてステージ上のマナーを保ったままするりとコードを踊りほどく、その「つくる」という意識をけっして手放さない姿勢は感動的でした。“知情意”をあきらめない姿勢みたいな。

あたりまえだけれど、ステージはつくられたものです。つくらなければ始まらない。暴力とは逆に、つくられたフィクションの破れ目にあらわれるものだと思う。具体的にはプロレスにおける不穏試合とか、野球の試合で乱闘が起こるとか、そういうやつ。

「S.S.S.S.」という公演は、精緻につくりあげながらもそれだけではなかった。破れそうな、壊れそうな危うさを組み込んで、それでもなおつくるんだよ!という表現することへの信頼を感じとることができる、そんな公演だったと思います。ひとり合点で勝手に感じとっているだけなのですが……。全体の印象としては、そんな感じです。

細かいシーンでは、坂本さんがスマホと隣り合って静かにうずくまる風景も印象的だったし、積み上げられたスマホの山を蹴散らす柴田さんも迫力がありました。スマホをやわらかく扱う場面と、乱暴に扱う場面の対比。これもおもしろい。スマホとは、どんな存在だろうか。便利なテクノロジーである反面、マジでウザいものでもある。つなぎたいものであり、ぶっち切ってしまいたいものでもある……。

そしてラストの場面。爆音のビートが流れるなかで石山さんが何度も倒れては起き上がりを繰り返し、ふと音が止み、静寂のなか「バタッ」と倒れる音だけが響く。とても鮮やかな終わり方。ビートでかき消されていた体の重みを伝える音。思えば、肉体から出る音を大音量で聴く公演でもありました。陳腐な感想だけれど、ことば以前に「体があるんだ」と教えてもらえた気がします。体がある。意外と忘れがちなことです。

こうして場面場面をことばで取り出すと、もしかしたら支離滅裂に思われるかもしれません。ノイズで即興のミニマル・ミュージック、ぐちゃぐちゃのマイクコードをかぶせる、スマホと隣り合い静かにうずくまる、スマホの山を蹴散らす、爆音のなか倒れては起き上がる……。ことばではよくわかりませんが、これらがふしぎとダンスとして有機的につながっているのです。ふしぎと。

いちばんおもしろいのは、この「ふしぎ」です。ことばではとらえきれない「ふしぎ」がある。「なんじゃこりゃ」という、現場でしか感じられない驚きがある。絡まったコードをすり抜けるように、ことばの網の目をすり抜けていくダンサーたちの躍動がある。さらに言えば、お客さんが集まってじっとそれを眺めている空間全体もすごくふしぎ(他意はありません!)。ぜんぶ含めて、どういう営みなのだろう?

ゴリゴリとマッサージを受けたような心地で帰りました。凝り固まった世界をほぐす、世界観のマッサージ。ひとつ、べつの次元が加わるような。何かちがうもの、「オルタナティブがある」と思える。問いを持ち帰る。それはわたしにとって、何よりの希望になります。

お粗末な感想ですが、こんなところで。

 

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