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日記996


「考え過ぎ」と人から言われる。自分では考えないほうだと思う。やることなすこと思いつきに過ぎない。夢みたい。考えていたら動けない。なので、ふりかえると恥ずかしくなる。「なぜあんなことをしたのか……」と。わからない。そういう頭なのだから、致し方なしと諦めている。「考える」ということばにふくまれる、企図の感覚が自分のなかにはない。無目的。

いつも散漫にぼんやりしている。恥を忍んで本日も思いつきを散漫に並べたい。前回の日記995に書いた中井久夫の「信」と「理解」って、おそらく「全体」と「部分」の相克でもある。「理解」はどこまでも部分的であり「部分」はついに、「全体」に及ばない。こう書いてみると、あたりまえすぎて元ネタがどんどんつまらなくなってゆく……。その代わり、わかりやすい。つまらないものは汎用的。

部分を全体であるかのように押し付けてしまうと、よくない。というお話。「群盲象を評す」の寓話みたいな、全体像の奪い合いが勃発する。あらゆる「理解」はちっぽけな部分に過ぎない。でも「全体を把握したい」という気持ちが逸って、ときに「部分」を暴走させてしまう。

「全体像の奪い合い」は昨今、其処此処で見られる。「我こそが全体を把握する者!」と言いたがる人は多い。それを信じたがる人も。そんな人間はいないのに。戦争の原因の一端も、「全体像の奪い合い」として抽象的には説明が可能か。

「群盲」で思い出したけど、文芸誌『群像』2023年7月号で保坂和志がこんなことを書いていた。主語が述語を規定するのではなく、述語が主語に保証を与える語り口について。

 

 私はハイデガーがシェリングの〈人間的自由の本質〉を読解する本の中で書いたこの主語と述語の関係に大げさに言えば感動したのだ、世界観のある種の転換が起こった、主語と述語を並べたとき、述語が主語の内実を保証する働きになっている、だから、 「おまえは高校生なんだから高校生は高校生らしくしろ。」  という言い方になる、この文では、目の前にいる「おまえ」つまり言われた側にしてみれば「私」であるその私より高校生の方が認識論だか統辞法だか、文の構造によって生まれる意味では真理値と言うのがいいか、つまり理屈を形成する力関係が上になる、目の前にいる個人を差しおいてその個人が何に属するかの定義が優先される、それは転倒だ、 「ジャズとはブルーノートという音階の規則に沿って演奏される音楽である」ではなく、 「俺が演奏する音楽がジャズだ」 「演奏者がジャズだと思って演奏するのがジャズだ」 「これでいいですか? これはジャズと言えますか?」ではない、ジャズでもロックでも、そういう態度をもしとったらジャズやロックの根底が崩れる、 「俺たちの演奏、パンクになってるかなあ?」  なんてこと言うパンクはいない、ロックもジャズもはじまりはそうだった。(p.428)

 

連載「鉄の胡蝶は歳月に夢に記憶に彫るか」より。「目の前にいる個人を差しおいてその個人が何に属するかの定義が優先される、それは転倒だ」と。ここを読んだとき、「信なき理解」の破壊性とリンクした。「述語はついに、主語に及ばない」と言い換えてもよいのかもしれない。あるいは、ちょっとズレるが「客観はついに、主観に及ばない」という話でもあるか。

もう「〇〇はついに、〇〇に及ばない」と言いたいだけのような気もしないでもない。だんだんなんでもよくなってきた。「タコはついに、イカに及ばない」とか、「タケノコはついに、キノコに及ばない」とか。言ってみると、ぜんぶそれっぽくなるというか、一言でクライマックス感が出る。すばらしいフレーズ。

話を戻すと、個人を部分的な定義に押し込めようとする圧力は高い。そうしないと不安だ、というのもわかる。説明がほしい。腑に落としたい。あなたはこういう者、わたしはこういう者です、と。たいてい、「は」という助詞を使って相対的に説明したがる。なかなか「これがわたしです」と、「が」を使えない。そこまで自己を中心化できない。細かく見れば、保坂氏も「は」と「が」の話をしている。「お前は高校生なんだから~」と「俺が演奏する音楽がジャズ」の対比。この差が「主語優位/述語優位」の対比にもつながっている。

述語が理屈のうえでは優位になりがち。それはたぶん、そうにちがいない。「述語が主語に保証を与える」その転倒は、地図がこの世界だと思ってしまう転倒にも似ている。旅行ガイドがすなわちその場所であると短絡するような。かといって、地図やガイドがいらないわけではない。だけど、地図を見すぎるとむしろ迷う。眼前の風景をさしおいて、地図ばかりに固執する人は滑稽だろう。「現実がガイドの通りではない!」と怒るクレーマーとか。

いや、それはそれで極端まで進めてボルヘスみたいな想像力の迷宮につながればおもしろい。迷宮とは逆のベクトルだが、アカシックレコード的な想像力とも近い。すべてを記述的に照らしたい欲望。世界のあらゆる記憶がすでに刻まれている!

わたし自身は地図ばかりに執着するタイプだと思う。そして道に迷う……。迷っていたいのかもしれない。自分を見失うくらい。いわゆる書痴的な傾向が強い。現実がだるくて内に閉じこもりがちな人間としては、そっちの方向も否定できない。

哲学者の坂部恵が論じる日本語の述語を思い出す。保坂氏が引いている、ハイデガーの「保証を与える述語」とは異なる。述語は規定的にはたらく場合もあれば、動的な変幻を可能にする場合もある。一種の仮面として。坂部は後者の仮面性に着目する。

 

 いわゆる主語をあらわすことがなく、あるいは動詞の活用語尾によって指示することもなく、述語のみをもって完結した文を構成しうるわたしたちの日本語は、けっして不完全なことばではなく、時枝誠記の説くように、述語は、具体的場面におかれ、ひとの口にのぼることによって、完全なものとして生きる。〈仮面〉もまたこのような〈述語〉にほかならない。それは、博物館の主-客のつめたい死の論理の世界から取り出され、具体的な場面におかれることによって、はじめて、完全な意味と〈こころ〉を得て生きる。
 川端康成の『山の音』において、いわばその主人公でもある侍童の面は、平凡な女秘書のおもてにかけられ、その中からほとんど無意味な涙があふれ出ることによって、はじめて、生きる。

 

『新装版 仮面の解釈学』(東京大学出版会、p.9)より。「侍童」は原文ママ。『山の音』に登場する能面は、たしか「慈童」だった。

坂部恵の哲学は、二元論の〈あわい〉にひたりつく。「生は同時に死をはらみ、あらわれはあらわれざるものを、存在は不在を、つねにはらむ」(p.164)といった、幽明の境を未分化に回遊する。定義を眩ませ、騒がしい理性の明るみから暗らかにそっと退行していくような思考のふるまいが自分の肌に合う。

出発点に戻ると、患者は「わかられない」ほうが安心している。この点と坂部恵の〈仮面〉は接続するように思う。隠すこと、隠れること、わかられないことによって表現可能な感情がある。仮面の下でのみ、あふれる涙がある。仮面を剥がそうとしてはいけない。原因を知ろうなんて、無粋の極みだろう。

また脈絡が飛ぶようだが、書きながら長谷川龍生の詩「泪が零れている時のあいだは」を思い出した。

 

泪が零れている時のあいだは
孤りでいても 鏡に自分を見つめていても
狂わない 狂いの領域から打ち返されている
泪が零れている時のあいだは
ひと知れず呼吸づいて よろよろと歩いているような
かすかにしめし合わせて
最後の紐の手もとに 微力がこもっているような
泪を ふいてください ふき取って
そんな言葉 仕草に もたれこまない
零れているのは そのまま そのままに
やがて 乾きの翅が舞い下りて
雲のある方向に 消えていく

そのまま そのままにして
最後の一瞬 手離しの動作にはいる
真直下に断ち切る
断ち切るまで そのまま
そのままにして

 

『泪が零れている時のあいだは』(思潮社、pp.11-12)。どこか、敬虔な詩だと思う。どこだろう。わかろうとしない。「そのまま」という。「わからないままにする」がひとつの、信じるということの条件ではないか。「俺が演奏する音楽がジャズだ」と言われてしまえばもう、なんだか知らんがそれを信じるしかない。同じことは「高校生なんだから高校生は高校生らしくしろ」にも言えるか……。自律か他律かの違いはあれど。

そういえば、「は」と「が」については中井久夫もチラッと書いていた。

 

「は」と「が」はセットになって動いているような気がする。「は」か「が」か単独しかないセンテンスでも、もう一つのほうはどこかに潜んでいるようである。「は」で始まったセンテンスの次のセンテンスは「が」で始まることが多そうである。また「は」で始まったセンテンスの中に「は」で始まる文節や副文章は挟めないけれども、「が」で始めるのなら挿入できるということがあるようである。

 

『私の日本語雑記』(岩波現代文庫、p.56)。「気がする」でしかない曖昧な書きぶり。でも、おもしろい。セットになって、どこかに潜んでいると。「は」と「が」の話から逸れるけれど、ことばはつねに、そうは言っても別のものが混在/潜伏しているんじゃないかとたびたび感じる。

「わたしは」と言っても、半分くらい「わたしが」が含まれているかもしれず、むしろ「あなたが」すら20%くらい混入しており、そこに「彼らは」もちょいちょい入ってきて……みたいな。人の言語は一語一語、おそろしいほどの多重性をともなってアウトプットされているような、気がする。誰も、なにもわからないまま、無意識にアレコレ混ざっちゃっている気がする。俺がお前でお前が俺で、といったように。気のせいかしら……。

保坂和志の連載では、最後に接続詞への言及があった。接続詞もふしぎな、演出めいたもので、自他のあわいにある。相槌や、合いの手に近い。「からの~?」みたいな。あきらかに相手を意識した、もたれこむようなことばの仕草だと思う。文章をわかりやすくするためには不可欠。自己啓発本には接続詞が多いらしい。聞きかじった話。

接続詞に関しても、中井久夫の興味深い指摘がある。 


 幼い私が最初に作った作文には、終止形は最後に一つあるだけであった。すべてのセンテンスは「して、」「して、」「して、」で繋がれていた。「ぼく」がした事柄の継起が順に並べられているだけのものである。子どもの言語意識には事態は単に継起するものとして捉えられていたのである。そのうち、「どこどこに着きました。それからそこで何々しました。そして……」で構成される文になった。接続詞の発達と分化とが大きな意味を持つ一時期があるのかもしれない。(前掲書、p.33)

 

「接続詞の発達と分化」は、自他の分化と関係しているのではないかな、なんて思った。接続詞はたぶん、架空の読み手(聞き手)が挿入することばだろう。それから? そして? でも? からの~? と、聞いてくれる架空の他者が言う。ひとりのことばではない。そこには、もうひとりいる。一人二役の分裂がある。「接続詞は使いたくない」とたびたび言及する保坂和志は、「もうひとり」の混入に対して潔癖なのだと思う。


 

 

 

誰にもわからない言葉でなら
思いきり言いたいことが言えるのに
誰にも見えない姿でなら
自由自在に走り動き踊り飛び跳ねられるのに

  


午前0時、外を歩きながら思い出した曲。まいにち、寝る前に散歩をする。ダイビングが趣味の知り合いがいて、「海の底では孤独でいられる」と話していた。真夜中の散歩もそれに近い。誰もいない住宅街を、水底に沈むように、ゆらゆら歩く。



今日の高見順。

 

 

執着

ハナクソを丸めていると
なかなかこれが捨てられぬ
なんとなく取っておいた手紙のように
このつまらぬものが
生への執着のように捨てがたい

 

『死の淵より』(講談社文芸文庫、p.135)

 

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