7月16日(日) 介護施設の祖母と面会。同じ話を何度も聞く。自分とそう変わらないなと思う。ふしぎと気楽にやりとりができる。いつもある感覚。ふだんの会話の規則から逸脱できるためか。ある一定の規則に準じたやりとりが気詰まりでしょうがない。祖母との会話は、そこから、ちょっとはみ出せる。意味が薄く、グルーヴが前面に出る。以前も書いたけれど、音楽に近い。ことばを強いられる感覚がぜんぜんない。万事がノリだけでOK、みたいな世界観。介護のしごとをしていたとき、同僚と話すよりも認知症のお年寄りとわけのわからない話をするほうが気楽だった。万事ノリでOKだから。ふつうは逆なのかもしれない。同様に、幼いこどもとも話しやすい。 わたしはきっと、いわゆるところの「知能」が低い。いわゆるところの。胸を張って、プライドを持ってそう思う。諸君、わたしは「知能」が低い! もう「知能」が低い会話しかしたくない……。いちおうフォローすると、半ば皮肉。お年寄りも幼い子も「知能」が低いとは思わない。むしろ接していると学ぶところが多い。どんな人も知的だと思う。胎児から、死ぬ間際の人まで。「いわゆるところの」ではない別種の「知能」がある。秩序立った意味世界からは、ズレた「知能」。わたしは意味が苦手だ。 他方で、意味に人一倍こだわっている面もある。苦手だから。というか、意味に強いられているような感覚がずっとある。強迫的。だからこそ、「意味の薄さ」に焦がれてしまう。でもやはり意味を探している。どっちもある。ただ、いわゆる「知能」が低いのは確かだ! こう暑いと、むやみに断言したくなる。断言は一瞬の清涼感をもたらす。うちわを扇ぐような感じ。今日の最高気温は38℃。晴れ。上半身裸で、砂場に穴を掘る少年を見かけた。がらんとした公園のなか、ぽつんと。まわりに保護者も友人もおらず、彼はひとりだった。小学生時代の自分みたい。ひとり穴を掘ったり、側溝に砂を流したりして遊んでいた。それでなんの不満もなかった。いまだって、似たようなものだ。 駅前を歩いていると、知らないおじいさんが百円玉を落として気づかずに行ってしまった。走って届けてあげる。駅前なので人通りが多く、わたしとおじいさんのあいだに数人いたけれど、皆さんスルーだった。おじいさんは満面の笑みで百円を受け取ってくれた。「わかんなかったよ! だっはっはっは!」と。す...