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日記998


変わらない(と信じられる)基盤があるからこそ、変わることができる。小坂井敏晶『矛盾と創造 自らの問いを解くための方法論』(祥伝社)に、こんな話があった。ユダヤ人に関して「ユダヤ性を手放し、居住地の文化に同化する条件がイスラエル誕生のおかげでやっと整った」と。以下、上掲書よりチュニジア生まれのユダヤ人作家アルベール・メンミの言を又引。

 

 抑圧の真っ直中で同化はまず不可能だった。非ユダヤ人が同化を拒絶したからだけでない。同化の耐え難い不安のためにユダヤ人自身も拒否していたからだ。(……)今後はユダヤ人が固有の土地・国家・文化を持つおかげで、同化に向かうユダヤ人を大目に見ることができる。自由な人間となることで同時にユダヤ人はユダヤ性を放棄する自由を獲得する。だから今日では同化について話せるようになったのだ。(……)同化への憤慨・非難の気持ちがユダヤ人の意識においてすでに十分に和らいだからだ。
(……)同化を望むすべてのユダヤ人にとって同化が正当だと認めなければならない。自らの運命を選ぶ自由をユダヤ人にも返さなければならない。ユダヤ人共同体への所属を再確認するか、他の共同体を選択するかを単なる気分や利益から決められるべきだ。他のどの人間にも許される権利がユダヤ人にだけ認められないということがあろうか。イタリア人がフランスに同化したり、ドイツ人がアメリカに同化したりするのと同じでないか。だが、ここでも忘れてはならない。痛みを伴わずにユダヤ性の消失がついに可能になったのはユダヤ人国家が存在するおかげなのだ。(p.81)

 

「抑圧の真っ直中で同化はまず不可能だった」。この引用を読んだとき、「アフォーダンスの配置によって支えられる自己」という論文を思い出した。著者は自閉症スペクトラムの当事者である綾屋紗月さん。国家単位から個人単位へ話のスケールは変わるが、大雑把な機構は似ていると思う。つまり「自己感」が不安定だと、動こうにも動けない。「する」がかなわず、「させられる」になってしまう。


 ソーシャルブレイン研究によれば、行為から知覚を予測する過程によって立ち上がる「私」のことを「自己感」と呼ぶ。この言葉を用いるならば、私の場合、ちょっとした環境の変化であっても知覚するため、同じように運動指令を出しているつもりでも、毎回予測と異なる結果が戻ってくるので混乱し、自己感の不安定化を招くことになったのだと言えよう。
 自己感が確定していないこのような状態だと「自分らしくふるまえばいい」「もっと自信を持って!」と言われても、信じられる自分の行為パターンがそもそも自分の中に見当たらない。前項では侵入してきたイメージや記憶を必死に追い払おうとしてきたことを述べたが、なんとか追い払ったあとも自己感はうすく、戻るべきはっきりとした自分オリジナルの行為パターンがあるわけではない。異物の侵入を排除したあとはまた、からっぽな空間にもやもやと煙が充満しているような状態へと戻るだけだった。それは掴みどころのない不安定なもので、つねに緊迫しながらぎりぎりのところで私の恒常性を維持しようとし続けているいつもの配置、という程度である。


河野哲也 編『知の生態学的転回 第3巻 倫理 人類のアフォーダンス』(東京大学出版会、pp.169-170)より。自己感を規定する要因には、「行為パターン」のようなミクロなものから「社会とのつながり」のようなマクロなものまで階層構造があるという。割愛するが、なんやかんやありながら綾屋さんは徐々に安定した自己感を育んできたのだと。その結果として得たものは、距離だった。

 

 自己感ができたことは、人との距離の取り方にも大きな変化をもたらした。以前は他者と自分のふるまいにミクロなレベルの相同性を見つけると「この人と自分はすべてが同じかもしれないから仲良くなりたい」と思って急接近したい衝動に駆られていた。しかしミクロからマクロの自己感が安定してきた後は、他者に対しても自分に対してもミクロとマクロの二重の視点が生まれ、「部分的には同じだけれど全体としては違う」と思えるようになり、徐々に、他者と適度な距離を保てるようになり始めている。またそれによって、人とのつながりも感じられるようになってきた。
 「他者との距離が生まれることでつながりを感じられる」という体験は一見、逆説的なので、私には不思議に思われたが、少し考えてみれば、「つながる」とは、離れているヒトやモノが結びつく現象のことなのだから、「自分と他者は総体として違う」という前提を得ることなしに、おそらく人はつながりを感じられないものなのだろう。(p.178)

 

自己感の安定化とともに、他者に対して「部分的には同じだけれど全体としては違う」「総体として違う」という視座が浮かび上がる。そして、「違う」からこそつながりを感じられる。「変わらない(と信じられる)基盤」とは、なにがしかの統合的な全体性なのだろう。それが自他を腑分け(=「する/される」を腑分け)する免疫機能のようにはたらくのかもしれない。自己の輪郭を形成する全体感。

おそらく自己感は同時に、他者感でもある。他者にとって、自分は他者であるという認識。「ユダヤ性を放棄する自由」とは、「他者になりうる自由」と言い換えることもできる。それを可能にするためには、ユダヤ性の確立が必要だった。自己の変化には、逆説的ながら自己の確立が必要になる。それは同時に他者の確立でもあるから。「ここ」がなければ「よそ」もなくなる。

便宜上「確立」と書いたが、そこに明確な実態はない。ヒトの同一性みたいなものは、ほんとうに脆弱であやふやだと思う。振れやすい。逐一、その場しのぎにつくられゆく感じ。わたしが同一性あやふや人間なだけかもしれないが、そう思っている。小坂井氏も指摘するように、同一性はひとつの虚構。狂おしい虚構。「国家」なるものも、虚構的な概念だろう。

「虚」が先走ることで、つられて「実」があとからついてくる。自分は、そんな感覚で生きている。「つられて」が重要かな。他人のことも、そんなふうに見ている気がする。わたしは/あなたは、どのような虚構につられているのか。言い換えると、何を信じているのか。綾屋さんの論文も、半ば「信」の構築過程として読んだ。なにを読んでもおなじようなことを考えていて、どうかと思う……。新味がない。

小坂井敏晶の虚構論も、裏を返せば「信」が根底のテーマとしてある。

 

 「不条理ゆえに我信ず(credo quia absurdum)」。二世紀頃、カルタゴに生まれたキリスト教神学者テルトゥリアヌスが発したとされる言葉だ。データなど正しさを保証する証拠があれば、信じる必要などない。検証結果に従うだけのことだ。信じるという行為は原理的に不合理な営みである。だが、それなしに納得も感動も悟りもありえない。対岸にうまく到達できるかどうかわからない。それでも大丈夫だと信じて跳ぶ。契約によって守られ、警察の実力行使を背景に義務が履行される保証があれば、信頼は要らない。 

『矛盾と創造』(p.278)


人間は誰でも日々、条理に依らない跳躍を成し遂げながら生きている。そこが気になる。生まれた時点から、なんの保証もなかったはずだ。わたしはわたしがどうやって生きているのか皆目わからない。でもなんか生きてる。心臓の動かし方とか知らんけど快調に動く。すごい。みたいなことを、よく思う。眠り方も、目覚め方もわからない。しかし毎夜なんとなく、眠って目覚める。なぜこんなブログを夜な夜な書いているのかもわからない。でも書く。どういうモチベーションだろう。こんなザマで、自己もなにもあったものではない。なにもわからないが、始まったのだからもう仕方ない。仕方なさだけが自分のエンジンになる。 

自己はほんとうに自己なのか。どこまでが自己で、どこからが他者なのか。その切り分けは困難だろう。「人間は完結した存在ではない」と小坂井氏は書く。


 完結した存在として人間を捉えると、本来自律する個人の間に発生する絆は利益追求のために合理的に結ばれる関係か、社会規範に眼を眩まされた結果だという消極的解釈しかなくなる。だが、人間の根本的な不完全さや脆弱さから出発すれば、人の絆が実は人間の本性の裏返しにすぎないと気づく。個人が自己完結し、閉じた存在ならば、いくら集まっても共同体は生まれない。人間が欠如を内在する関係態であり、本質が存在しないからこそ、共同体が成立する。欠如や不完全を否定的角度から捉えてはならない。不足のおかげで運動が生まれ、変化が可能になる。

『矛盾と創造』(p.381)


人間はまず度し難く「群れ」だと考えたほうがいい、とわたしも過去に書いていた(日記855)。「欠如を内在する関係態」という小坂井氏の人間観は、簡潔でとてもしっくりくる。ただ、不完全ながらも「個人みたいなもの」はある。「同一性みたいなもの」もある。なくてはならない。そのつくり方・つくられ方にわたしは興味がある。自分のつくり方・つくられ方に。あなたのつくり方・つくられ方に。あるいは、壊れ方・壊され方にも。

それって、物語への興味なのかな……。やはり。文学?



 

この一週間、いろいろあった。暑くてバテ気味。

7月8日(土)、映画『怪物』を観た。繕わずに書くと、わたしは映画の物語をうんぬんするのが苦手だ。湖がきれいだったとか、金魚がいたな~とか、バカ丸出しだけどそういう断片ばかり記憶に残る。「歌の歌詞が聴きとれない」という人がいるように、映画の物語がつかめない。歌詞とはちがうかな。まあいいや。小説も、大半は物語がつかめない。細部の断片と抽象的な形式はつかめる。しかし、内容らしい内容はおぼえていない。場面場面が次々とバラけてゆく(同一性あやふや人間たるゆえん)。

その上で。端的な印象として『怪物』は、わかりやすい物語に抵抗を示す男児ふたりが主軸の物語のように思えた。迫りくる物語からの逃走。みたいな。なんて抽象的な感想だろう。いくつかの物語が輻輳していたが他の登場人物についても、必要以上にクローズアップしない抑制が効いていたように思う。

中村獅童が演じる粗野な父親は、すこしだけ自分の父を彷彿とさせた。不本意に謝罪させられる教師は、自分が経験したいつかの就職面接を思い出させた。「わし、あんな感じだったな」と。小学校時分のことも、いろいろと思い出す映画だった。

よかったのはラスト、あっけらかんと生きているふたり。死んだら「泣ける物語」になってしまう。誰にも関係のない場所で、なんにも関係なく笑っていたい。そんなラストだったかな。それは、わたしの願いにも重なる。というか、自分の願望と重ねて解釈しているだけかもしれない。「泣ける物語」ではないにせよ坂本龍一の効果か、ちょっと泣きそうになった……。ちかごろ涙もろい。バルブがゆるい。

「見られ方」がふたりの関係を歪ませる。しがらみがすっかり洗い流されたかのような台風一過の束の間。「誰とも関係がない」という意味では、少年たちは健やかに死んでいた。いや、いなくなっていた。ひとときでも、いなくなることに成功していた。見つからなくてよかった。

ヒネたことを言えば、彼らの命がけの失踪を関係性(包摂)の言語で語りたくない。(もちろん、包摂を語ることもたいせつ)。ただ、わたしの目には包摂を説く映画には見えなかった。日頃から、「言えない」とか「隠そう・隠れよう」という気持ちを抱えて生きているせいだろう。そっちに共鳴してしまう。隙あらばいなくなろうとしている。家にいても「帰りたい」と思う。デカルトの座右の銘を思い出す。「よく隠れし者、よく生きたり」。

各人がそれぞれに「言えない」を秘めている、そんな映画だったかもしれない。ことばが留められ、動脈硬化を起こす。口を閉ざす。嘘をつく。それによって関係がややこしくなる。ときに人を死に追いやる。あるいは、凶行に駆り立てる。こともある。

映画と関係するかわからないが、あれこれぼんやり眺めながら日々こう思う。一方的に他者を断じることはできない。自己を穿つことなく、他者に触れることはできない。そう、まいにち思う。 

「おなか空きましたね」。映画を観終えたあと、友人にかけた声。12時05分からの回を、昼食抜きで観ていたのだった。劇場を出たところの待合スペースに、着物姿の女性がひとりで座っていた。それを横目に出ていく。午後2時過ぎ、人の疎らなファミレスでゆっくりする。いい時間だった。

 

7月10日 (月)

夜、ひさしぶりにライブハウスへ。

 

 

 

CHIYO Kさん。

暑さに朦朧としていたせいか、異様に幻想的だった。
美しい。

 


 

と、もらすとしずむ。

 


リーダー(?)の10さん(いちばん右の人)は、お会いするたびに新しい目標をドーンと掲げておられるような。人生に背を向けてばかりの自分とは真逆でおもしろい。いや、もしかすると新しい目標は新しい背の向け方なのかもしれない。轟音に包まれ体が洗浄される。出不精かつ人見知りなのであまりライブには行かないほうだけれど、行くとやはり楽しい。気力が湧く。

次の日があるため終わって早々に退出。したにもかかわらず翌7月11日(火)、寝坊。さいきん、就寝時に耳栓とアイマスクをつけている。最初は違和感があったが、慣れればぐっすり眠れる。火曜日はそれが仇となった。ぐっすり眠り過ぎて、汗だくで駅まで走るハメに。走って間に合えばよかったが、遅刻。あそびのないシステマチックな時間の無情さに打ちひしがれる。電車をはじめ、みんな時間に正確すぎると思う。つらくない?

 

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