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日記1003 ファンタジーと幻想、「しぬ」の使い方


 

10月14日(土)

藤本和子『リチャード・ブローティガン』と澤田直『フェルナンド・ペソア伝』を並行して読んでいた。両者とも晩年は人を遠ざけるようになり、酒浸りだったという。ともに40代で亡くなっている。変に感化されているだけだろうか、わたしも40代のどこかで気が狂ってしまうような予感がする。そうなるように努力したい。だいたいあと10年ちょっとで発狂して死ぬ。やったね。めでたしめでたし。死なない場合でも、めでたしめでたし。

死といえば、漢 Kitchen 特別編の Elle Teresa とぱーてぃーちゃん信子の回が楽しかった。



 

冒頭、ネイルのくだりを書き起こす。

 

信子 ネイルのポイントとかあるの?

Elle なんか、“夏”みたいな? “夏終わり”みたいな感じ?

信子 あははっ、よくわかんない

Elle  しぬ(笑)

信子 生きて~(笑)

Elle 生きる生きる(笑)

 

楽しすぎる。「しぬ」という平仮名のテロップがいい。「死ぬ」ではない。魂のかけらも込もっていない「しぬ」。なんともハッピーな「しぬ」。「しんじゃう」や「しにそう」といった及び腰ではなく、「しぬ」。この思い切りのよさもすごい。言い切るんだ。わたしも使いたい。「死」ということばのからっぽさをさらりと看破している。

ついつい考えてしまうのは、からっぽだから。からっぽなことばには意味の充填が永遠につきまとう。からっぽな出来事は、いかようにも解することができる。そこには「知」の傲岸さがあらわれやすい。ブローティガンはその点に敏感だったという。

 

 “日本人の青年が入院中の病院の六階から投身自殺をしたという話しを、かれは友人から聞いた(「東京で燃える片腕」)。青年は交通事故で片腕をうしなったことに耐えられなくて、自らの生を絶った。友人は、ほんとにもったいないことをしたと思うのよ。なぜ死を選ばなければならなかったのかしら? 人間は片腕だけでも生きていけるものなのに、と感想をのべた。かれはその青年の場合、片腕だけでは生きていけなかった、と主張する。
 片腕では生きていけないと考えた青年にたいして、人間は片腕だけでも生きていけると説教することはやさしい。しかし、それでは生きていけないと主張した青年の心の動きを理解することはできるのか。
 わからなければ、われわれは沈黙すべきである。普遍的と見なされているような知恵をもって、他者の行動を判断することは傲慢だ。わからないことをわかったといってしまう思いあがりに対抗する方法としての文学を、ブローティガンは想定して、その態度をつらぬいた。かれの作品では、人物の心理や性格が詳しく書かれたことがない、という批判は山ほどある。それができなかった、という前提での批評だろう。しかしそれはかれの強みだった。人物をよく知っているという前提で書くことにつきまとう傲岸を、かれは拒絶していた。”

(『リチャード・ブローティガン』、p.235)

 

日記1002のつづきでいうと、心理描写のなさも『ソナチネ』と似た質感をもたらす要因だろう。どちらの作品世界も、うるさく感じるものがほとんどない。銃声でさえも静かに響き渡る。反対に「片腕だけでも生きていけるものなのに」ということばは、どんなに小声であってもうるさく感じる。他者の独在性を侵犯しているからだ。しかも、(たいていの場合)その自覚もなく。

ファンタジーは信じる力が描くものであり、幻想は不信心や疑う力が描くものだと聞いたことがある。「片腕だけでも生きていけるものなのに」は、ファンタジーの語り口なのだと思う。現実の青年はそうではなかったけれど、そう信じたい。ほんとうは生きていけたのだと信じたい。「うるさく感じる」と書いたけれど、人情としてはわかる。人情は押しつけがましくうるさいものであり、それでいい。それでなきゃいけない。

他方でブローティガンのように「わからないことをわかったといってしまう思いあがりに対抗する」となると、その語り口は必然的に幻想性を帯びるのだろう。「信じたいもの」への対抗としての幻想。

たぶん、わからず屋さんは幻想文学が好きだったりする。疑念がベースにあるから。ファンタジックな語りは信じることが起点になるため、わからず屋には骨が折れる。ともにあろうとする願いがファンタジーをつくり、ともにあることのない孤独が幻想をつくる。とも言えそう。「ともにあることのない孤独」はペソアにも感じる。


 “私は健康的で自然な生には惹かれませんでした。ありそうもないことではなく、信じられないものを渇望し、理論的に不可能なことではなく、そもそも不可能なものを渇望していたのです。”

 

『フェルナンド・ペソア伝』より。ペソア自身が少年時代の思い出として述べたもの。彼はやがて、超自然的なオカルティズムにハマっていったという。おそらく深い疑念は、深い信への渇望でもある。めっちゃ疑う人は、めっちゃ信じたい人でもある。これは、自分の性向を鑑みても思う。疑心と信心のあいだをずーっとうろうろしている。極端なかたちで。

 

 

10月14日(土)にここまで書いて放っておいたら10月19日(木)になっていた。いつも終わり方がわからん。ここで終えてよかったのかもしれない。それにしても、うつうつとした日々を過ごしていると時間の経過が早い気がする。話を変えよう。

数日前、ある詩人の方に過去の記事を読んでいただいたみたいで、しぬ。科学と詩の関係について思いつきを述べた内容だった。noteに書いたやつ。過去記事はすべて恥ずかしいので定期的に全消去したくなるけれど、載っけておくとひょんなこともある。しぬ。

使ってみると、つい「うれしくてしぬ」とか「ありがたくてしぬ」とか文脈をつけそうになる。しかし、そこはストイックに堪えなければならない。「しぬ」は、一切の留保を挟まずに使うのがポイント。もう唐突に、しぬ。事故に遭ったかのように。「しぬかと思った」もダメ。及び腰。「しんだ」でもダメ。シンプルにひとこと、しぬ。Elle Teresa はそうやって使っている。ただ、しぬ、のみ。零度の感情。『ソナチネ』の死の描き方と似ている。淡々としぬ。黙々としぬ。しぬ。しぬ。いきなり降って湧いたように。実際の死も(生も)、そういうものにちがいない。しらんけど。


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