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日記1008


11月25日(土)

“誰も母の存在を認めることはできなかった。父以外は。きっと私でさえも。”

『鈴木いづみ 1949-1986』(文遊社)に収録されている鈴木いづみの娘、鈴木あづさのことば。「父」はジャズ・ミュージシャンの阿部薫。友人とのふたり読書会で読んだ一冊。「存在を認める」とはどういうことか。日記1006に引いた、オルガ・トカルチュクの「優しさ」と関連する何かだと思う。あるいは、「読める」とはどういうことか。ここにも関連してくるような。

このブログを読める人がいる。どこの馬の骨とも知れない人間が書いた雑文。大多数の人にとってはなんの価値もないだろう。役に立つ内容でもない。しかし少数ながら、読む人がいる。なぜ読めてしまうのか。「なんかある」と思っているのかもしれない。なんか。好意的にせよ嫌うにせよ。「なんかいる」でもいいか。なんかいます。

文章には幽霊のような性質があるんじゃないか。見える人には見える。読める人には読める。なぜこの人のことばが読めてしまうのだろう。そう感じさせる無名の書き手がネット上にいる。なぜかわからないけれど、出会えてしまった。むろん、それは「日本語が読める」という以上のなにか。

音楽にも似ているかもしれない。感応できる曲、できない曲がある。そういえば、倫理観と音楽の好みにはつながりがあるんでないか? という研究を最近みかけた。

Music preferences and moral values: New study uncovers surprising connections

主にイタリアのfacebookユーザーから抽出したデータだそう。眉唾かな。ある曲を「聴ける/聴けない」の差はどういうところにあるのか。写真にも「見える/見えない」がある。こういうのは詰めていけば結局、「偶然」や「運命」としか言いようがない謎の因果なのかもしれない。鈴木いづみと阿部薫の出会いのように。人との出会いも、もれなく全員どうして出会ったのかわからない。なぜめぐり逢うのかを、わたしたちはなにも知らない。自分自身をはじめ、あらゆる存在が謎。

 

小石はなんていいんだ
道にひとりころがって
経歴も気にかけず
危惧も恐れない
あの着のみ着のままの茶色の上衣は
通りすぎていった宇宙が着せたもの

 

エミリー・ディキンソンの詩。ときどき、自分が道端の小石と変わらないように思える。ひとりころがって。因果が漂白され、たんに存在している。わからなさの只中でぽかんと。

「マイミク」というひとことで笑い合ったのが読書会のハイライト。「すがるものがないと生きていけないが、すがるものに殺されてしまうこともある」みたいな話もしたっけ。いつも2時間くらい話すけれど、思い出せることはすくない。映画を観ても、本を読んでも記憶に残る部分はすくない。たぶん、その「すくなさ」がわたしをつくる。あらゆる記憶は「残りもの」。

もうひとつ、べつの読書会に参加している。あたりまえだけど、読書会に参加すると本が読める。読まないといけなくなる。時間を確保せねばならない。その強制力がありがたい。


11月27日(月)

電車内で「KANが死んだ」と話している人がいて、てっきりラッパーの漢 a.k.a.GAMIが死んだのかと思った。漢さんは生きていた。

 

11月28日(火)

YouTubeでサルゴリラのコントをみた。

 

 

 

魚の比喩をゴリ押しする野球監督。デイヴィッド・リンチの『大きな魚をつかまえよう』(四月社)を思い出した人も多いだろう。いや、すくないかな……。リンチが超越瞑想(Transcendental Meditation)を礼賛するエッセイ集。この本における「魚」とは、アイデアの比喩。

 

  “アイデアとは魚のようなものだ。
 小さな魚をつかまえるなら、浅瀬にいればいい。でも大きな魚をつかまえるには、深く潜らなければならない。
 水底へ降りていくほど、魚はより力強く、より純粋になる。巨大であり抽象的だ。そしてとても美しい。
 私はある特別な魚を探している。私にとって大切なのは、映画に翻訳できる魚だ。でも水底には、あらゆる種類の魚が泳いでいる。ビジネス向きの魚。スポーツ向きの魚。万物の用途に向いた魚がいる。”


もちろん、野球向きの魚もいる。サルゴリラのコント「青春」をみたあとにこの文面を読むと、児玉さんが演じる監督の声で再生されること必至である。

 

  “さて私はいま、絵画の魚をつかまえようとしている最中だ。音楽の魚もね。次回作となる映画の魚は、まだつかまえていない。”

 

魚の比喩をゴリ押しする映画監督。つい「魚やめい」とツッコミたくなってしまう。サルゴリラは魚の比喩をゴリ押しするというアイデア(=魚)をつかまえ、キングオブコント優勝という大きな魚をつかみとった。デイヴィッド・リンチの『大きな魚をつかまえよう』が着想源(=魚)だったらおもしろいけれど、そんなことはないか。

 

12月1日(金)

「人がこわい」と泣きわめく夢を見た。醒めてもなおこわい。

 

12月4日(月)

スーパーのレジで小銭を落としたおばさまがいて、拾ってあげたら「いらっしゃいませ」と言われた。「あ、間違えた、ありがとうございます」とすぐに訂正するおばさま。おそらく接客のお仕事をなさっている方で、セリフが混線したのだろう。お疲れなのかもしれない。「ああ、いえいえ」などと適当に会釈して立ち去る。

刑務所あがりの人がトイレに行くとき、「用便願います」と口走ってしまうようなものか。と、ぼんやり思う。焼き芋を買って、歩きながら食べた。


12月5日(火)

チバユウスケが亡くなったそう。

 

 

YouTube視聴の2023年まとめでは、「シャロン」がトップだった。音楽はSpotifyで聴いているが、ROSSOはSpotifyにないためYouTubeからたびたび流していた。しかし、いろいろ聴いていたなかで「シャロン」がトップだとは思わなかった。この1年で7回聴いたそう。自覚なくリピートしていた。

歌詞がとても好き。演奏も、ボーカルも。要するに好きなんだ。あまり自覚がなかったけれど、わたしは「シャロン」が好きだ。YouTubeのレポートで気づいた。いつから1年のまとめが出るのようになったのか知らないが、今年はじめてまとめを見た。どうでもいいけどサムネイル、マリリン・マンソンと見紛う。

この曲はコメント欄もよかった。「学生時代に猛吹雪で学校から帰れなくて下駄置き場で一人でこの曲を聴いていた事が何故だか忘れられなくてたまに聴きたくなる」「12月のガールズバーのカラオケで何かクリスマスソング歌ってって嬢に言われてシャロン熱唱して場を凍らせたのが思い出」「これ聴きながら吸うタバコが世界一美味い」。

いまは多くの追悼コメントが並んでいる。

 









冬の星に生まれたら
シャロンみたいになれたかな
時々 思うよ 時々
ねぇ シャロン月から抜け出す
透明な温度だけ
欲しいよ それだけ それだけ
シャロン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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