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日記1009


 

12月6日(水)

図書館で借りた大里俊晴『マイナー音楽のために』(月曜社)に、前の人の貸出票が挟まっていた。

ロングシーズン
マイナー音楽のため
虚空へ

とある。短い詩のようだと思った。ながい時間と、ひろい空間が喚起される。季節を跨いで、がらんとした虚空へ。マイナー音楽のため。『ロングシーズン』は佐藤伸治の詩集。『虚空へ』は谷川俊太郎の詩集。


12月7日(木)

近所に障碍をお持ちの方が住んでいて、朝早くから大声で泣いている。かなしい気分で起床することが多い要因のひとつはそれかなと思う。泣く夢もよく見る。夢に彼の泣き声が浸潤してくるのかもしれない。いままで関連づけていなかったけれど、そう考えると納得がいく。加えて、夢の中で感情が発露しやすい自分の体質もある。

感情というのは、掛け違いが起こりやすい。乱暴に書いてしまうと、すべての感情は複合的な掛け違いなのだと思っている。原因を同定できないほどに絡み合った。「あなたが好き」と言っても、その感情には「あなた」以外の多くのものが含まれている。たまたま想いを流し込める藁人形が「あなた」だった。「あなた」は流路をひらいた人。あるいは、綿あめの棒みたいなイメージ。「あなた」という棒を軸に、ふわふわと雲のような感情がまとわりついて「好き」が成形される。そんなふうにみている。「嫌い」も同様。

よくわからない比喩かもしれない。まあいいか。とかく感情はしらずしらずに漕ぎ出してしまう。熱をともない、さまざまな風景を巻き込みながら。そして、たまたまぶつかったちょうどいいものにぐるぐる絡みつく。その裏には複雑な因果の連鎖がある。なんかそういう感じだと思う。

書店で立ち読みした本に、「悲しみがいかに怒りの形であらわれてきやすいか」と書かれていた。表現の仕方も掛け違いやすい。つねに複合的であり、ひとつではないから。怒りにはかなしみが混入している。「好き」は「嫌い」へと容易に反転する。どんな感情も一筋縄ではいかない移ろいを描く。旋律のような、動的階調のどこかに位置している。

立ち読みしたのは、稲葉俊郎『ことばのくすり』(大和書房)だったと思う。たしか。

 

12月8日(金)

朝の電車、ひとりごとを発するおじさんと同じ車両に乗り合わせる。なにを言っているのかわからない。でも、日本語っぽい。ふしぎなことば。たまに「アウシュヴィッツ」と聞こえる。あきらかに「アウシュヴィッツ」と言っている。ほかはノイズにしか聞こえないが、「アウシュヴィッツ」という単語だけピタッとチューニングが合う。ごにょごにょごにょごにょ……アウシュヴィッツ!ごにょごにょごにょごにょごにょ……アウシュヴィッツ!ごにょごにょ……みたいな、一定のリズムで「アウシュヴィッツ」とおっしゃっていた。なんか考えているのだろうなと思う。「アウシュヴィッツ」の前後はみんなで考えてほしい、というメッセージなのか。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)へのオマージュなのか。よくわからないが、現代アートのようだった。

 

12月9日(土)

ものうげに跫音もたてず
いけがきの忍冬にすがりつき
道ばたにうづくまつてしまふ
おいぼれの冬よ
おまへの頭髪はかわいて
その上をあるいた人も
それらの人の思ひ出も死んでしまつた。

『左川ちか モダニズム詩の明星』(河出書房新社)のなかで藤井貞和が触れている、「毎年土をかぶらせてね」という詩。藤井によれば、「昭森社版『左川ちか詩集』(定価二円)に見ると、目次にだけ“!”が二つ並ぶ」のだそう。 

毎年土をかぶらせてね!!

『左川ちか モダニズム詩の明星』では、さまざまな人が左川ちかとの出会いを語っている。わたしは“Ririka”なる人のサイトではじめて左川ちかを知った。2004年ごろ。この人のはてなダイアリーをよく読んでいた。

 

12月10日(日)

介護施設の祖母と面会。このごろ、とても安定している。「みんな親切にしてくれるの」と何度も話す。周囲から良性の感情をゆずり受けているのだと思う。心は「間」に生起するそのたびごとの「もらいもの」というか、「流れのかたち」みたいなものではないか。という自分の考え方は、中井久夫の生命観に近い。

 

 “中井は、生命をさまざまな「流れ」が絡みあったりほつれたりしていくプロセスとして捉えている。そこには内部も外部もない。そこで身体はさまざまな「流れ」が交錯する開かれた場であり、閉じた統一体ではない。”

 

村澤真保呂・村澤和多里『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』(河出書房新社、p.114)より。たんなる受け売りではなく、中井久夫を読んでいると、もともと自分が思い描いている感覚にかたちを与えてもらえるような気がしてならない。いや、読みすぎて自分の思考と区別がつかなくなっているだけで受け売りなのかもしれない。それこそ絡み合う「流れ」のように。わからない。俺が中井で中井が俺で……。

ただ、中井にたどりつく前から生態心理学に興味があり、それっぽい本をちょくちょく読んでいる。この分野は、中井のエコロジカルな生命観と響き合うところがある。局在的ではなく、全体的なものの見方。知性のありようは中井久夫に及びもつかないが、「知」以前の好奇心のありようが部分的に近いのだと勝手に思っている。自分と近いものを嗅ぎつけないと、熱心に読もうとは思えない。

 

 “アメリカの有名な社交界の名士の言葉に、「噂が好きな人は、あなたに他人の話をする。話が退屈な人は、あなたに自分の話ばかりする。話の面白い人は、あなたにあなたの話をする」というのがあります。”

 

tumblrで拾ったことば。出典は『ツカむ!話術』というパトリック・ハーラン(お笑いコンビ、パックンマックンのパックン)の本だという。話術にかぎらず、文章でも同じように思う。「この著者はわたしの話をしているんじゃないか」と勘違いすると読める。幸福な勘違い。日記1008に書いた、「読める」とはどういうことか、という問いにもつながる。ことばはさまざまな「流れ」が交錯する開かれた場であり、閉じた統一体ではない。いくぶん「あなた」を孕む。

 

12月11日(月)

身長2mはありそうな、大きな男性を街で見かけた。どこか持て余したような体の使い方。大きな人を見ると、別役実のエッセイを思い出す。象について、別役はこんなことを書く。

 

 “図体の大きな動物というのは、常にその周辺に、一種独特の寂寥感を漂わせている。しかし、象ほど、それが色濃く見えるものはない。そしてこの寂寥感が、廃業した相撲取りや、引退したヘビー級のボクサーが身辺に漂わせているそれと、同質のものだとすれば、象もまた現在、生物としての現役を退きつつあるのかもしれない。象の大きさや汚さは、そのようにして説明されるものかもしれないのである。” 


『電信柱のある宇宙』(白水社、p.152)より。図体の大きな動物が漂わせる独特の寂寥感。なんとなくわかる。動物にかぎらず、大仏なんかも寂しい感じがする。巨大なものは、ぽつんとしたところがある。頭ひとつ抜けて。ぽつん。

 

12月12日(火)

「まつすぐな道でさみしい」 。種田山頭火の自由律俳句。たまに知らない場所をひとりで、ひたすら歩く。目的地もなく。歩いていると、適当に角を曲がりたくなる。直進しつづけることに抵抗感がある。曲がりたくなるのは、さみしいからだと思う。無目的にひたすらまっすぐ進むってさみしい。というか、ちょっとこわい。スタート地点から離れつづけることだから。「戻る」という意識を振り切って邁進する精神力が試される。カイジの鉄骨渡りみたいな気分になる。やってみるとわかると思う。山頭火の句が体でわかる。

できれば都会ではない知らない土地を、どこへ向かうのかも知らず、地図なんか見ずにまっすぐまっすぐ何時間も歩いてみる。もちろん、ひとりで。かならず不安になる。変な汗をかく。どんだけ暇なんだと思う。無知で、心細くなる。歩くごとに自分を守るものが削がれていく。「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句も、体でわかる。

 

12月13日(水)

阿部日奈子の書評集『野の書物』(インスクリプト)に「放っといてくれ派」ということばが出てくる。ジェイムズ・ノウルソン『ベケット伝』(白水社)の書評。

 

“もちろん、社会的な存在である人間が他者の承認を求め、「私が誰だか言ってくれ」と乞いながら生きていることも真実であろう。しかし片方で、「影の薄い存在でいたい」「放っておいてください」というのも、人間の根深い本性ではないかと思うのだ。目立たずに、出自も来歴も問われることなく、誰の記憶にも残らないよう、匿名のもとに生きられたら、と夢想する人は多いのではないだろうか。”

 

ときどき夢想する。知らない土地をむやみに歩き回るのも、「放っといてくれ」という意気がなせるわざかもしれない。名前を失える時間は、とてもありがたい。だれにも呼ばれない。自分のことをだれも知らない安心感。ブログを書くときも、この安心感のもとにいる。ひとり部屋のなか。だれもいないところでしか、うまくしゃべれない。人がいないと生き生きする。放浪的性格なのか。


“意味もなく死を待ち続ける人間の絶望的状況をニヒルに描き出した不条理劇、などと解説されるベケットの世界だが、その意味の成り立ちがたさ、人生も言葉も時間もばらばらに断片化されたような頼りなさに、かえってなぐさめられるというか、安らぎを覚えるのだ。”


ベケットにかぎらず、詩を読むときには似たような安らぎを覚える。たいてい意味がわからないから。意味が苦手だ。意味というのは、信心に似ている。ほとんどイコールだと思う。信心も苦手だ。だから、それについてしばしば考えてこんでしまう。詩は信心の裂け目に熾る。


12月14日(木)

カルピスが切れたので買う。常飲している。「不安は本質的に対人的性質をもつ」ということばをメモした。たぶん前掲『中井久夫との対話』のどこかに書いてある。よく上の空でiPhoneにメモしている。断片的な思いつきが無作為に並んでいて、どうしたものかと思う。何の役に立つというのか。「自己位置の答え合わせに失敗すると酔う」と書いてある。これはなんかおもしろい。「動きは情報の循環。なるほど」とあるが、よくわからない。動きは情報の循環? かつて納得していたらしい。


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