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日記1012


12月23日(土)

友人と会う。よく晴れた一日。空気が乾いて空が高い。呼吸をすると鼻の奥が痛む。乾燥に弱いのでマスクを重宝する。立川で見つけたうさぎのマンホールがかわいかった。それから三鷹の禅林寺で太宰治のお墓に手を合わせる。わたしはそんなに太宰を読んでいない。失礼ながら形式的になんとなく手を合わせると、笑いが込み上げてきた。「蛭子さんみたいになっちゃった」と自分でつっこむ。漫画家の蛭子能収さんは、お葬式がどうにも喜劇に見えてしょうがない体質らしい。

 

 “自分でもこの抑えられない衝動がなんなのか考えてみたこともあります。たぶん、僕は建前で悲しいふりをするのが苦手で、なのにそこにいる全員が揃いも揃って見事に神妙な顔をしているのを目にすると、もう葬式全体が“喜劇”のように見えてくるんです。そして、いちどその「魔のループ」に入ってしまったら、完全に終了です。がまんすればするほど、笑いが僕を攻め立ててくるのです。”

蛭子能収「葬式に行くのは、お金と時間のムダ」 「自分の葬式にも来てほしくない」 (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) 

 

なんとなくわかる。ひところ年末に流行っていた、「笑ってはいけない」で笑う力学に近いのではないか。あの番組は、笑ってはいけないのにいかんともしがたく笑ってしまう「魔のループ」をうまいこと演出してみせる。目の前でおかしなことが次々と巻き起こるのに、そのすべてに神妙な顔をして付き合わなければならない喜劇性。

「ひどい奴」と思われそうだけれど、お葬式とか、お墓に手を合わせるとか、ちょっとおかしい。葬儀にかぎらず、儀式一般に馴染めない不信心者が社会に一定数いる。儀式は、その共同体に染まっていない人間からすれば基本的におかしい。「いただきます」と手を合わせるところから妙だ。外国人か、あるいは何も知らないこどものような視座で人々を眺めてしまう。はたまた異民族の参与観察に訪れた人類学者か。

蛭子さんはある部分「染まれない人」なのだと思う。「独自の文化を生きる人」とも言える。それは「孤独を抱えた人」でもある。容易に感情を共有できない。通じ合うために、考えることを余儀なくされる。

わたしが笑ってしまったのは儀式一般との距離に加え、とくに太宰に心酔しているわけでもないせいだろう。「知らないおっさんの墓に手を合わせている」ぐらいの距離感。わざわざ電車を乗り継いで知らないおっさんの墓に来てやったぜ! と思うと笑ってしまう。ワイルドだろ? と言いたくなる。味の素のお供えも奇妙にうつった。それぐらい太宰については無知だ。調べると、太宰は味の素が好物だったそう。花も多く供えてあった。「死んでもモテている」とつぶやく。すぐそばには森鴎外一家の立派な墓がある。そちらさんにもご挨拶。形式は大事。

墓参りがよくわからない、とはいえ墓地の雰囲気は好きだ。文字が刻まれた石に包囲されて歩く。墓地は、手厚く保護されたどん詰まり。死んだ人がこれ以上はどこにも行かないとされている、どん詰まりにどん詰まってほっとする。不在をあらしめる証拠。立派にいない。でーんといない。「いない」がいる。nobody がいたよ。藤井貞和の「雪、nobody」を思い出す。

 

  “さて、ここで視点を変えて、哲学の、
 いわゆる「存在」論における、
 「存在」と対立する「無」という、
 ことばをめぐって考えてみよう。
 始めに例をあげよう。アメリカにいた、
 友人の話であるが、アメリカ在任中、
 アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、
 学校から帰って、友だちを探しに、
 出かけて行った。しばらくして、友だちが、
 見つからなかったらしく帰ってきて、
 母親に「nobody がいたよ」と、
 報告した、というのである。
ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、
練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、
降る雪のなか、難渋していた。
この大雪になろうとしている東京が見え、
しばらくきみは「 nobody 」を想った。
白い雪がつくる広場
東京は今、すべてが白い広場になろうとしていた。
きみは出ていく、友だちを探しに。
雪投げをしよう、ゆきだるまつくろうよ。
でも、この広場で nobody に出会うのだとしたら、
帰って来ることができるかい。
正確に君の家へ、
たどりつくことができるかい。
しかし、白い雪を見ていると、
帰らなくてもいいような気もまたして、
nobody に出会うことがあったら、
どこへ帰ろうか。
(深く考える必要のないことだろうか。)”

 

『ピューリファイ、ピューリファイ!』(書肆山田)より。墓参りを終えて駅に向かうなか、「今日はすごく寒い」と友人が話していた。わたしも手がすっかり冷えて、死んだ人みたいにかじかんでいた。荻窪まで移動し、邪宗門という喫茶店に寄る。自分の発想では思いつきもしなかったであろう場所。以前も書いたけれど、連れ出してくれる関係をたいせつにしたい。店内あたたかくてほっとする。やけに急な階段を上がって二階へ。『寄生獣』が置いてある奥の席。

薄暗く、年季の入った空間。壁には多くの落書きが刻まれていた。たしか30分ごとに鳴る時計があった。ほかにも時計はいくつかあったが、狂っていた。正確な時刻を示していたのは音が鳴るひとつだけだったか。年内さいごの読書会をする。1時間ちょっと過ごしたあと、外へ出ると空間の質がちがいすぎてふらついた。時制の曖昧な暗がりから、鮮明な商店街へ。大袈裟ではなく、くらくらしてしまった。街灯があまりに鮮明で硬質。やわらかな暗がりに慣れた意識を矯め直す。

さいごにカラオケ。ものすごく久しぶりに「遊んだ」って感じがする。カラオケなんて、年にいちど行くか行かないか。久しぶりに歌ってみると、「こんな一方的にまくしたてる時間があっていいのだろうか」とへんに戸惑った。日記1010にも書いたが、歌うって身勝手。そこが楽しいのだけれど、わたしは相互性を気にしすぎる。

文章を書くときにも、あまりひとりよがりではいけないと思いつつ、気にしすぎるとつまらなくなるため「ワシのブログじゃ!」と振り切りつつ、やはりいけないと思いつつ、と行ったり来たりの推敲に忙しい。しかし結局はブログもカラオケと似ており、「一方的にまくしたてる時間」以外のなにものでもない。それでいいのかもしれない。

わたしは、気持ちよく一方的にまくしたてる人がわりと好きだ。ステージ上で陶酔する人、お年寄りや酔っぱらいの繰り言、のろけ話、熱っぽいオタク語りなどなど。できるかぎり自己愛を全開にしてくださるとうれしくなる。「誰にせよ、その自己規定はその人の最高の瞬間を含むものであってほしい」という中井久夫のことばに共感する。ぜいたくを言えば、魅せてほしい。魅せられたい。ジュディ・オングのようにレースのカーテンひきちぎり、体に巻き付け踊ってほしい。要は、好き勝手やってる人が好きなのだ。怒られそうだけど。「共感する」としたが、おそらく中井の意図よりずっと不健康な過剰さで、自己規定はその人の最高の瞬間を含むものであってほしいと思っている。

この日の帰りは体が火照っていた。いつになく充実していたせいか。クールダウンのため、自宅の最寄り駅より2駅手前で降りて長めに歩いた。歩いているうちに、身も心も整理される。途中、白髪のおじいさんが酔い潰れて倒れていた。心配になり話しかけると、「はるちゃんか?」と聞かれた。はるちゃんではないが、言わずにうなずいた。おじいさんは「待ってて」と近くのスナックに入っていった。大丈夫そうだったので待たずに立ち去った。


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