為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。 以下の箇所が私的に示唆深かった。 “例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。 この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。 それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。” (pp.61-62) 自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業に入りづらい。なんとなく信じながらも、まあまあ適当にやっつけはじめる。いい塩梅に信じる心をもって。 貨幣がいちばんわかりやすいか。「こんなものただの紙や金属だ」という姿勢では生きていけない。かといって、執心しすぎて使う余裕を失っても孤独になる。たいてい、付かず離れずの距離を保って生活している。 こうした、いわば「おままごとのジレンマ」は、あらゆる場面で生じうる。わたしは、さまざまな切り口からずーっと、この「信じ過ぎても疑い過ぎてもやってけまへんわな」という図式にこだわりつづけている気がする。ひいては「ふつう」ってなんだろうね、みたいな問いにもつながる(たぶん)。「リアリティ」ってな...