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日記1015



前回(日記1014)のつづき、みたいなものを書こうと思う。かんたんに。ちょこちょこっと、メモ程度に。適当に。(そう言い聞かせないとはじめられない)。

2月のはじめ、以下の記事を読んだ。

【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル

きょうは3月7日(木)。時間が経ってしまったけれど、この1ヶ月なんとなく頭の片隅に渦巻いていたもの。


 “ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。
 
 しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。価値を含むことばの使い方もそうである。”

 

このあたり、前回の記事で引用した長田弘の「戦争というホンモノ/平和というニセモノ」と関連する。ひいては、そこから取り出した「一回性/複数性」の二項とも。「ひとり」を前提としたことばの体系と、「みんな」を前提としたことばの体系とのあいだでは、きっとコミュニケーションが成り立ちづらい。そんなことも思う。

社会的には平時でも、人は孤独を宿している。それぞれに個人的な非常時も訪れるだろう。いつ災害に遭うとも、事故に遭うとも知れない。それまでの価値観を変更せざるをえなくなるときがくる。喪失を経て、なお生きている。そこから始まることばがある。

しかし同時に、いかなるときも周囲は価値や意味であふれている。人は孤独を宿しながらも、ひとりではありえない。「体にいくつかの穴が開いているように、孤独にも他者を迎える穴が開いている」と数日前、友人へのメールに書いた(わたしの私信はブログと大差ない)。忘れがちというか覚えていないけれど、わたしたちはみな、母胎から分化してにゅるにゅるこの世に登場した激ヤバな過去をもつ。まるでそんな過去はなかったかのような素振りでサバサバ生きているが、人間は元来にゅるにゅるした奴らだ。激ヤバ過ぎて忘れてしまうのだろう。体から体が再生産される、あたりまえのふしぎ。

「孤独だ」という考えの多くはたぶん、死からの逆算によって生をとらえようとしている。生のはじまりから生をとらえるなら、そうかんたんに孤独で済ますことはできない。

サルトルは「我々は自由の刑に処されている」と書いた。そうかもしれんと思う一方で、そんなに自由ではないから安心してほしいとも思う。時代のいかんに関わらず、人は人に包囲されて経路依存的に育つ。きのう松岡正剛と津田一郎の対談本、『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』(文春新書)を読んでいたら、津田氏がこんなお話をしていた。

 

“生命というのは、拘束をかけないと情報が生成されないんです。拘束がないところで、ただ「自由にしていいよ」と言われたら、われわれだってあんまり何もできないですよね。ある程度は拘束をかけると人はがんばれる。そのように、生命システムというものも、何か拘束をかけてちょっと運動を制限してやると、すごく機能を発揮するところがあります。”

 

浅学ゆえ、生命システムについては知らない。でも、「自由にしていいよ」と言われたら何もできないという類比レベルの話はよくわかる。「度を超えた自由は不自由と知る」とラッパーのOMSBも歌っていた。前回の記事を読み返すと、「人間にとっての可能性とは、他者のことだ」とある。他者はわたしに拘束をかけて何者かにしようとする。「あなたはこういう人ですね」と陰に陽に形容する。そこには期待や願望が多分にふくまれる。それに対する反発ないし受容が自己の可能性の礎になる。

「診断は烙印ではない」とも書いていた。じゃあ、なんなのか。索引だと思う。似たような他者が身に受けてきた制限の索引。そのワードを紐解くことで、似たような制限下の人と共鳴できる。そこからひらける可能性がある。

すべての人は、ある一定の制限をその身に引き受けながら生きている。誰もそんなに自由ではない。自由とは何か、わたしにはわからない。死も同様にわからない。生まれてからつねに、一個の体や飛び交う言語による制限を受けつづけているし、体がなくなった(死んだ)経験もない。わたしたちは限られてある。そして、他者とともに生きている。そこを見失わずにいたいと思う。

 


 

ことばは、その人が身に負った制限の形式ではないか。じっさい認知的な面でも、言語的に成熟した大人は注意の制限に長けているのだという。サンドラ・ブレイクスリーほか著『脳はすすんでだまされたがる マジックが解き明かす錯覚の不思議』(角川書店)に、発達心理学者アリソン・ゴプニックのこんな指摘がある。


“「私たちは大人は子どもより注意をちゃんと払っているとよく言います」とゴプニックは述べる。「しかし、私たちは実はその正反対のことをしているのです。大人は注意を払わないでいることに長けています。他のすべてのことを忘れて、ある一つのことに意識を集中するのがうまいのです」”

 

ゴプニックは著書『哲学する赤ちゃん』(亜紀書房)のなかで、大人の意識を「スポットライト型」、こどもの意識を「ランタン型」と呼んでいる。大人の意識傾向はスポットライトのように狭く目的への集中に長けているが、こどものそれはランタンの灯りのようにぼんやり全体に注意を向けているのだと。大人が感知しないちょっとしたノイズにも、こどもは敏感に反応できる。きっと言語的な制限がゆるいぶん、こどもは大人よりずっと情報量の多い世界を生きているのだろう。ことばは基本的に、スポットライトの役目を果たす。

大人はノイズキャンセリングに長けている、とも言える。さらに言い換えるなら、毎日を同じように過ごすことに長けている。こどもにとっては毎日が新鮮で、一挙手一投足がチャレンジング。生きるのは初めてだから。それはいくつになっても同じなのだけれど……。あと、老いて体が衰えるとノイズキャンセリングが下手になるような気がする(ここ数年、耳鳴りや謎の神経痛に悩まされている)。体が勝手にノイズを演奏しだす。

この世界はほんとうにわけがわからないノイズだらけだ。自分の体がやっていることもふくめ。それをバッサリ無視することで社会生活が成り立っている。ある目的から次の目的へ次の目的へ次の目的へ……と。

ノイズは「偶発性」と言い換えることもできる。「偶発時は空から降りそそいでいる宇宙線みたいに絶えずわれわれに降りそそいでいて、ただ気がつかないだけのことが多い」と精神科医の中井久夫が書いていた。この表現がわたしは好きだ。詩的であり科学的であり現実的であり夢幻的でもあり、ぜんぶを総合したリアリティがここにある。

カメラを持って散歩するときの感覚は、偶発時にちょっとだけ敏い。レンズを向けるその行為はスポットライト的でも、撮る以前の意識状態はランタンに近い。ぼんやりとなんにでも興味をもちながら、かつ距離を測って削ぎ落としながら見る。大人の限定的な意識と、こどもっぽい散漫な意識が手を取り合う作業かなと思う。

中井の文脈からは逸れるが「偶発時が降りそそぐ」というイメージから、綾屋紗月の論文「アフォーダンスの配置によって支えられる自己 ――ある自閉症スペクトラム当事者の視点より」を連想した。『知の生態学的転回 第3巻 倫理 人類のアフォーダンス』(東京大学出版会)という論集に収録されている。

この論文では手始めに、自閉症スペクトラム当事者である綾屋氏の日常のひとコマが活写される。すこし長いけれど、引用したい。

 

 “今日はいつもより早く出かけなくてはならない。でも地肌のかゆさとべとべとした感触が「今日こそ頭を洗え!」と強烈に訴えている。急いで風呂場に向かうとその手前で洗濯かごに山盛りの洗濯物と目が合う。うなだれた姿で「私たちをこのまま置いて行くの?」と言うので洗濯機に洗濯物と洗剤を入れてスタートボタンを押したとき、「おかあさ~ん、ごはんは~?」と子どもの声。「あ~、今から作るわ~」と返事をしながら冷蔵庫を開けて中を眺めると、いろいろな食材が目に飛び込んでくる。卵が「目玉焼きにする? スクランブルエッグがいい?」と聞き、ハムも「俺を焼く?」と言うので、「時間がないから君たちまとめてハムエッグだ」と答える。そこへ「あの、私、水分足りなくてカラカラなんですけど」と口腔内の粘膜が言うので、冷蔵庫で見つけたブドウを一粒つまんで口に入れる。すかさず「え、突然そんなことされても甘すぎてまとわりつく!」と舌とのどから異議申立てがあったためコップに麦茶を注いで飲む。するともぞもぞしてきた下腹部から「ねぇ、トイレに行こうよ」という声。トイレに行って帰ってくると「靴下がな~い!」と子どもが大声を出すので「ほらここ!」と室内用物干しに吊り下がっている靴下を取り外して子どもに向かって放り投げる。「おい、頭を洗う話はどうなったんだよ」「早く、僕たちのこと焼かないの?」「あのさ~、レポート用紙あったっけ~?」う~ん、頭がぎりぎりする。今日は早く出かけるはずなのに、もう何時間も経ってしまった気がする……そう思って時計を見るが、まだ10分も経っていない。だが出かける前からあれやこれやと話しかけられ、もう動けないくらいへとへとだ。” (p.156)


洗濯物やハムや卵や粘膜などが話しかけてくるのは、比喩ではなく主観的な事実としてそうなのだと思う。多くの人が意に介さない細かな出来事にいちいち応答しなくてはならない。そうした体をもって生きる人がいる。すべての人がここで描写されているような些事には絶えずさらされているが、たいてい無意識にササッと処理できる。そんなに気がつかない。同じパターンとして一括処理できる、ともいえる。

「偶発時が宇宙線のように絶えず降りそそぐ」を具現化すると、こういうことになるのかと想像した。中井は「驚きを伴った意外性のあるものは、われわれを生かしてくれる大きなもの」「もし意外なことが無くて、すべてが予見されたことだけでできていたとすれば、退屈のあまり今まで生きていないかもしれない」という文脈でこの表現を使っている。一面ではその通り。でも、べつの一面では意外性が過ぎてもしんどい。

綾屋氏は、ミクロな情報が絶えず意識にのぼってきて「パターンからはずれた一回性のエピソードが膨大に蓄積する傾向にある」ため、「日常」の土台となるようなひとまとまりのパターン形成がなかなかできず、安定的な「私」という自己感の生成にも時間を要したという。「私」とはたぶん、反復の結果、常同的な一定の制限(=パターン)を身に負う結果としてあらわれる。ぜんぶが一回的で、その都度バラバラに迫りくるとしたら、「私」もなにもなくなってしまう。

「私」が生成される前提には複数性がある。綾屋氏のことばで言えば「周囲との連関構造が生まれ」てようやく自己感は安定化する。他者との関係もふくめた、環境との相互浸透というか。そして環境が移ろうように、「私」も移ろいゆく。「制限を身に負う」といってもそんなに固定的ではなく、環境に合わせてゆらぐ・たゆたうようなものとして想定している。

環境は通常、季節のように予兆を孕みながらゆっくりと変化する。一挙にガラッと変わると、「私」の変化が追いつかなくてつらくなっちゃう。所与の生活様式を失った非常時の「私」は置き去りにされる。昨日までの道理が今日からは不条理に。そんなときゼロから「私」の再構築を迫られる。このような時代性から「実存主義」は打ち立てられたのか、しらない。

 


 

ともあれ、わたしたちはさまざまな環境に対処するかたちで「限られてある」。そして、それぞれの限定性が他者の可能性として影響を及ぼしあう。閉じたかたちで「限られてある」のではなく、その限定はにゅるにゅると滲み出す。あなたがこれを読めるということは、なんか滲んでいる。なんか。読むという営為は、非常ににゅるにゅるしたところがある。

「限られてある」とはいえ、そこには穴が開いている。その穴から、なにがどこにどうつながるか、ぜんぜんわからない。この2月は「ffeen pub」という出版レーベルの note に写真を使っていただけることになって、とてもうれしかった。粒ぞろいの小説アンソロジーが読めます(有料)。春には紙書籍も出るそうです。

 ffeen pub(フィーン・パブ)|note

それ以前にも、もらすとしずむというバンドのEPジャケットをつくったり、ほかにも声をかけてくださる方が謎の抜け穴を通じてちょくちょくあらわれる。ちなみに、もらすとしずむは2024年4月7日(日)、渋谷の CLUB asia 無料開放というヤバそうなイベントをぶち上げるそうです。今日は3月7日(木)なので、ちょうど1ヶ月後。

らいぶとらいぶ@clubasia 20240407

しょうじき、よくわからないけれど、凄まじいバイタリティだと思う。わからない。この「わからなさ」こそが「自由であること」なのかもしれない。ときどき思い出しては紐解く本、『科学者たちのポール・ヴァレリー』(紀伊國屋書店)にある一節を思い出した。

 

“私が自由であるということは、私はいつでもあなたを驚かせるだろうということである。なぜなら、あなたが私を完全に知ることはけっしてないからだ。さらに、私が自分を完全に知ることもけっしてないのだから、私は自分をつねに驚かせることになるだろう。”

 

いま再読したら、さらにおもしろく読めそうな気がする。2013年に読書メモをつけているから、はじめて読んだのはもう10年以上前。メモには自分のことばとして、「わからないことに敬虔でありたい」と書かれている。それはいまも変わらない。

「メモ程度に」と書き始めたら、こんなに長くなるのも予想だにしなかった。いや、うすうす勘づいてはいたか……。あーびっくりした。

 

 

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