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6月, 2024の投稿を表示しています

日記1022

  ギバーおぢ。 わたしのなかでは、お金を使い過ぎた際などに使うことば。「ちょっと今日はギバーおぢしちゃったなあ……」みたいに。散財しまくりたいときにも使う。「よーし、今日はギバーおぢしちゃうぞ~」みたいに。いずれにせよ、お金を使ったあとの気持ちはすこしかなしい。「ギバーおぢ」ということばは、そんなかなしみの受け皿になる。「おぢ」の滑稽味がかなしみを引き立てる。笑いながら泣けることば。ギバーおぢ。 さいきん心身がつらいので体を鍛えている。元気だか元気ないんだかわからん。なんでも混ぜてしまう。カレーの要領で。元気もつらいも混ぜてみるとおいしいと思う。カレーのようなメンタルでありたい。なに混ぜてもカレーだ。元気だろうがつらかろうが知ったことか。混ぜりゃカレーだ。なにを言っているのだろう。 近所の公園にうんていがあった。そこで夜な夜なトレーニングするおっさんがいた。わたしもときどきぶら下がっていた(おっさんがいないとき)。おとといの夜だったか思い立って、久しぶりにその公園へ行ってみると、うんていは撤去されていた。もうあのおっさんを見ることもないのか。仕方がないので意味なくジャングルジムにのぼった。けっこう頭つかう。パズルを解くように手足をかけていく。たのしい。三十路過ぎてもジャングルジムがたのしい。 こんなんで十分だ。もうなにもいらないと思った。深夜のジャングルジムのてっぺんでひとり、すべてを手にしたかのように。遠巻きにかすかな虫の声がきこえる。蒸し暑い空気を深く吸う。雲の合間に星がちらつく。ここでエンドロールが流れろ、と願う。もう終わってくれていいのに、とは何年も前から感じている。たのむから終わってくれ。わざわざ願わなくとも、いずれ不意に終わるのだとは思う。それでも。 ことばは「それでも」の産物ではないか。「にもかかわらず」とか。なにも言わないに越したことはないけれど、それでも。わたしはいつも、その地平からしゃべっている気がする。誰に宛てるでもなく。もて余したところだけ。すこしだけ、祈りをふくんで。たいていは、黙ってほほえんでいる。 終わる、というその一点において、すべての物語はハッピーエンドだと誰かが言っていた。どんな終わり方であれ、終わること自体が幸福なのだと。素敵なアイデアだと思う。笑いながら泣きたいと思う。それがいちばんだと思う。

日記1021

前回( 日記1020 )、予告した内容を適当に済ませたい。 日記882 とも関係する。書こうと思っていたのは、「できないことが練習によってできるようになる過程」のふしぎについて。そこでは現実と虚構の均衡が起こる。以上、おわり。いや、もうすこし展開すべきか……。伊藤亜紗『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)を読んでいるとき思いついた。この本のプロローグに「技能獲得のパラドックス」というものが出てくる。   “①「できない→できる」という変化を起こすためには、これまでやったことのない仕方で体を動かさなければならない  ②そのためには、意識が、正しい仕方で体に命令を出さなければならない  ③しかしながら、それをやったことがない以上、意識はその動きを正しくイメージすることはできない  ④意識が正しくイメージできない以上、体はそれを実行できない”(p.9)   つまり「体が意識の完全なる支配下にあると仮定するかぎり、私たちは永遠に、新しい技能を獲得できない」というパラドックス。あらゆる技能獲得は意識を振り切って「体はゆく」からこそ可能になる。思いがけずできてしまう飛躍がある。なんでかしらんけど。意識はそのことに、あとから気がつく。あれ? もしかしていま、できてた? と。 “「できる」とは、自分の輪郭が書き換わることであり、それまで気づかなかった「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」に着地すること(p.239)”と伊藤は書いている。意識がそれまでの自分ではありえなかったべつの自分に触れる。できてしまう。まるで自分ではないような自分があらわれる。それは感動的であり、よく考えればゾッとする不気味な事態でもあるのかもしれない。 なぜ、できないことを練習すると「できる」に至るのか。上記の「グレーゾーン」を「現実と虚構の均衡点」などと言い換えたところで、なにもわかった気がしない。ただ、過去に自分が考えていたロジックがここにも当てはまりそうだと気がついただけ。 もうひとつ引用したい。田中彰吾『自己と他者 身体性のパースペクティブから』(東京大学出版会)には「コツをつかむ経験」について以下のような記述がある。    “コツをつかむ経験において生じているのは、身体イメージに沿って意識的に身体を動かしている状態から、状況に見合ったしかたで全身が自発的に動く状態へ

日記1020

6月4日(火) 夕飯どき、空になったペットボトル片手に地元をほっつき歩いていると、北野武と目があった。ゴミ箱を探していたら、たけしを見つけてしまった。ごっつい高級車から降りて、通行人を一瞥する。そこに出くわした通行人がわたしだった。関係者以外、ほとんど誰も気づいていなかったように思う。なんの変装もしていない、そのまんまのあの人がいた。幾人かの男性に囲まれ、手際よく建物の中へ入っていく。歩道に姿をあらわした時間は、おそらく10秒にも満たなかった。 こんなこともあるんだなと思う。芸能人なんていそうもない場所だったので余計に面食らった。言ってしまえば汚い路地裏。ただ、いい感じの小料理屋がいくつか並んでいる。その路地を抜けた先に自販機とゴミ箱がある。ペットボトルの中身を飲み干していなかったら、あの数秒間に出くわすことはなかったであろう。いや、6月4日のすべての行動がすこしでも違ったら、あの場にわたしはいなかった。さらに大きく言えば、この街に住んでいなければ、いっそ生まれていなければ……と究極的には宇宙のはじまりまでさかのぼれるような気もする。 すべての出来事がこのような連関のうちにあるのかもしれない。「すべての偶然があなたへとつづく」みたいな。そんな歌あったな。つまりカップラーメンを床にぶちまけて泣いたあの日も、切れ痔に悩んでいたあの日も、カバンを盗まれて野宿したあの日も、営業先で犬に追いかけられたあの日も、いままで経験したありとあらゆる日々が2024年6月4日(火)の夕方、北野武との遭遇のためにつづいていたのか。そういうことか。それはしかし、どういうことだ。だからなんだというのだ。なんかうれしかった。それくらいのことだ。 わずかでも「意味がある」と思える瞬間がおとずれるとき、こうして人生のストーリーが再編されるんだろう、などとぼんやり考える。拾い上げたその意味を中心に、過去の出来事のつながりが編み直される。「報われた」とか「罰があたった」とか。良くも悪くも。 ここに運命の導きを見出して「もう芸人になるしかない!」と思い込んでもいいのかもしれない。もしもわたしが前々から芸人になりたくて、でもなかなか踏み出せないという悩みを抱えていたならば、きっかけになりそうなもの。しかしそんな悩みは抱えていない。そういう因果のうちに自分はいなかった。 「自分なりの因果関係をつかまえる」みた