十月十四日(月)
新横浜駅でquoさんと待ち合わせ。二回目の散歩。よく晴れた心地よい秋の日和。夏の成分もやや混入しているぐらいのぽかぽか陽気だった。
地元の人しか使わないような裏口(篠原口)にわたしが降りたせいで、落ち合うまでに右往左往してだいぶお待たせしてしまう。quoさんは新横浜らしい表側の場所におられた。DMで地図の画像と「丸い空中これる?」という謎のメッセージを受けとり、よくわからないがとりあえず当たりをつけてそのへんまで向かうことに。
ちょこちょこ連絡をとりながらquoさんを探していると、すれちがう人々が全員quoさんに見えてきて軽いトランス状態に陥る。「丸い空中」の理解もおぼつかず、しまいにはぜんぜん知らない人に挨拶してしまう始末。脳内では山崎まさよしの「One more time, one more chance」が流れつづけていた。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。焦れば焦るほど、どこにでもいくらでもquoさんがいるような気がしてしまう。見るものすべてにquoさんが宿っている……。
おまけに便意をもよおしてきたため、いちど冷静になろうと駅ビルのトイレを借りた。それが功を奏してか、大便中に急にひらめき「丸い空中」のミステリーが完全解決。歩道橋のこれや! というか、DMをよく読めば最初からquoさんは駅前のデカい歩道橋のことを言っており、迷うほうがどうかしていたのだ。
すぐさま「謎はすべて解けた」「真実はいつもひとつ」と名探偵気取りの返信を送り、山崎まさよしの妄念からも解放され、早歩きで意識レベルをぐんぐん上げながら「丸い空中」を目指す。ようやく落ち合えたころにはすっかり夜になっていた。というのはウソで、数十分はお待たせしてしまったと思う。申し訳ない。
「quoさん探してたら、道行く人々が全員quoさんに見えてくるんですよ」と話すと、「そんなスタンド攻撃みたいな……」「顔覚えてないってこと?」などおっしゃっていたように思う。安堵感もあったせいか、失礼を働いておきながら大笑いしてしまった。たしかにスタンド攻撃を受けていた可能性は否めない。いや、人のせいにしてはいけない。
前回同様、写真を撮りながらの散歩。わたしはいつもひとりで無闇に撮りつづけている。「ひとり」という状態は文字通り「無」であり「闇」である。なんにもわからぬままやりつづけている、といっても過言ではない。
似たようなことをやっている人と歩くと、自分の行動にすこし光が射すような感覚を得る。比較対象があると傾向もなんとなくみえてくる。とてもありがたい。他者は半ば自己の反映(フィードバック)として機能する。自我というのは無数の他者を介した反映の結果なのだと思う。人々の渦のなかに生じる。「ひとり」は良くも悪くも自我をおびやかす。わたしの場合、我を忘れたいがために何時間もひとりで歩いているようなところがある。
「撮る/撮らない」の選別や、同じ場所を撮るときの距離感や角度、歩くときなにを視界に入れてなにを排除しているのか。気づくことは多かった。自分はあまり車を視野に入れないなあ、とか。民家も見ない。その代わり、煤けた壁面や植物を見ている。あるいはそこに映える光。
quoさんはわたしよりずっと遠くを見ている気がした。広いところ。共に歩くまでもなく、写真を見ればわかりそうなものだけれど、それが具体的に体でわかる。そこまで行くんだ、と思うことしばしば。わたしは誰に対してもあとからついていく。とくに会話のうえではそうかもしれない。それぞれの人の過程をあとづけるように話ができたらうれしい。
ながいこと歩いたり話したりしながら、すこしずつquoさんの像が見えたり見失ったりする。時間を共有するなかで、その人の姿が変化していく。情報の追加と修正が繰り返される。定まらないひとりの人の姿を追いかける、その運動のうねりがおもしろい。
うねりをつくるには自己開示も必要になる。自分のことを話すのは苦手だけれど、それなりに話したように思う。他者像の変化は自己像の変化も呼び込む。ふだん、あまり話さないようなことをたどたどしくことばにしていた。生活感のある話から、宗教と精神医学の隣接関係とか、羞恥心とリアリティについてとか、抽象的な話まで。
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