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日記1027

十月十四日(月)


新横浜駅でquoさんと待ち合わせ。二回目の散歩。よく晴れた心地よい秋の日和。夏の成分もやや混入しているぐらいのぽかぽか陽気だった。

地元の人しか使わないような裏口(篠原口)にわたしが降りたせいで、落ち合うまでに右往左往してだいぶお待たせしてしまう。quoさんは新横浜らしい表側の場所におられた。DMで地図の画像と「丸い空中これる?」という謎のメッセージを受けとり、よくわからないがとりあえず当たりをつけてそのへんまで向かうことに。

ちょこちょこ連絡をとりながらquoさんを探していると、すれちがう人々が全員quoさんに見えてきて軽いトランス状態に陥る。「丸い空中」の理解もおぼつかず、しまいにはぜんぜん知らない人に挨拶してしまう始末。脳内では山崎まさよしの「One more time, one more chance」が流れつづけていた。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。焦れば焦るほど、どこにでもいくらでもquoさんがいるような気がしてしまう。見るものすべてにquoさんが宿っている……。

おまけに便意をもよおしてきたため、いちど冷静になろうと駅ビルのトイレを借りた。それが功を奏してか、大便中に急にひらめき「丸い空中」のミステリーが完全解決。歩道橋のこれや!  というか、DMをよく読めば最初からquoさんは駅前のデカい歩道橋のことを言っており、迷うほうがどうかしていたのだ。

すぐさま「謎はすべて解けた」「真実はいつもひとつ」と名探偵気取りの返信を送り、山崎まさよしの妄念からも解放され、早歩きで意識レベルをぐんぐん上げながら「丸い空中」を目指す。ようやく落ち合えたころにはすっかり夜になっていた。というのはウソで、数十分はお待たせしてしまったと思う。申し訳ない。

「quoさん探してたら、道行く人々が全員quoさんに見えてくるんですよ」と話すと、「そんなスタンド攻撃みたいな……」「顔覚えてないってこと?」などおっしゃっていたように思う。安堵感もあったせいか、失礼を働いておきながら大笑いしてしまった。たしかにスタンド攻撃を受けていた可能性は否めない。いや、人のせいにしてはいけない。

前回同様、写真を撮りながらの散歩。わたしはいつもひとりで無闇に撮りつづけている。「ひとり」という状態は文字通り「無」であり「闇」である。なんにもわからぬままやりつづけている、といっても過言ではない。

似たようなことをやっている人と歩くと、自分の行動にすこし光が射すような感覚を得る。比較対象があると傾向もなんとなくみえてくる。とてもありがたい。他者は半ば自己の反映(フィードバック)として機能する。自我というのは無数の他者を介した反映の結果なのだと思う。人々の渦のなかに生じる。「ひとり」は良くも悪くも自我をおびやかす。わたしの場合、我を忘れたいがために何時間もひとりで歩いているようなところがある。

「撮る/撮らない」の選別や、同じ場所を撮るときの距離感や角度、歩くときなにを視界に入れてなにを排除しているのか。気づくことは多かった。自分はあまり車を視野に入れないなあ、とか。民家も見ない。その代わり、煤けた壁面や植物を見ている。あるいはそこに映える光。

quoさんはわたしよりずっと遠くを見ている気がした。広いところ。共に歩くまでもなく、写真を見ればわかりそうなものだけれど、それが具体的に体でわかる。そこまで行くんだ、と思うことしばしば。わたしは誰に対してもあとからついていく。とくに会話のうえではそうかもしれない。それぞれの人の過程をあとづけるように話ができたらうれしい。

ながいこと歩いたり話したりしながら、すこしずつquoさんの像が見えたり見失ったりする。時間を共有するなかで、その人の姿が変化していく。情報の追加と修正が繰り返される。定まらないひとりの人の姿を追いかける、その運動のうねりがおもしろい。

うねりをつくるには自己開示も必要になる。自分のことを話すのは苦手だけれど、それなりに話したように思う。他者像の変化は自己像の変化も呼び込む。ふだん、あまり話さないようなことをたどたどしくことばにしていた。生活感のある話から、宗教と精神医学の隣接関係とか、羞恥心とリアリティについてとか、抽象的な話まで。

ふりかえって感じたこと。自分が人と話をしたい動機は、以下に引くパステルナークのことばに近い。


“私は探り出したい、糊づけもせずに
日々の切れはしから成る生きた物語が何によってつなぎとめられているのかを”


あなたはあなた自身として、いかなる物語につなぎとめられていますか。どうしてあなたは、あなたを保っていられるのですか。自分についても同様の問いをもつ。こんな話を吹っかけられたら、人によっては拒絶反応を示すかもしれない。

とうぜんながら、じかに問うなんて野暮なことはしない。そんなことせずとも、真摯にことばを聞けばすこしずつ感じられるものだと思う。それぞれをつなぎとめるもの。

ちょっと悪趣味に言い換えるなら、あなたはどんな檻に収監されていますか。どういった刑に服していますか。といったところ。孤独を知りたい。ひとりでいるときの、虜囚のような姿。どうしようもなくなったとき、何に対して祈りますか。という問いにも近い。

繰り返すが、じかには問わない。ただ、つねにこういった問いを念頭に起きながら目の前の人の像を構築している。自己像も同様だろう。それがこの日の会話を通して顕著に感じたこと。文章の読み方もおなじかもしれない。

歩いた道のりをざっと書いておく。新横浜駅から三ツ沢墓地を経由し横浜駅まで、寄り道しつつふらふら。墓地はわたしのリクエスト。広大で壮観な場所。大量の墓石の山に埋もれることができる。とても安心する。人々の生きる場所では安心できない。この日は夕景がきれいだった。「どんなテーマパークよりも墓地が好き」などと話したことを思い出す。誇張抜きの正直な気持ち。

暗くなってから横浜駅の付近で座り込んで話をする。なんか懐かしい感じのことをしているなあと思った。学校の帰りに適当な場所で立ち止まって友人と益体もないことを話しこむみたいな。夢に関する話がおもしろかったので、quoさんおすすめの渡辺雄三『夢分析による心理療法 ユング心理学の臨床』(金剛出版)を読もうと思った。今年中にはかならず。

あと、一回目のお散歩記事に自分らを「おっさんふたり」と書いたこと、やんわり指摘していただく。第三者的な距離をおいた目線から、あえて「おっさん」と記した。文脈上、失礼かとは思いつつもツッコミ感覚で「ふつうはこう見えちゃうよな」というバランスをとった部分であり、言うなれば「自分のことば」ではなかった。

「どう見られるか」のバランスなど一切とらずに、一人称で語るのであれば、おっさんだなんて思っちゃいない。quoさんのことも、自分のことも。「純粋な自意識は小学生っすよ(笑)」と話すと、quoさんは「そう、純粋自意識の話をしよう」と楽しそうにおっしゃっていた。それはわたしの望むところでもあった。

社会的に流通する実年齢ではなく、主観的に適合するその人の年齢と話がしたい。肉体とどんなに乖離していたってかまわない。人間の時間は直線的に進むばかりではない。固有のうねりをともなうものだ。ツッコミ(客観)はほどほどにして、ボケ(主観)を重視したいと常日頃から思う。

これは「孤独を知りたい」という話にも通じる。ボケたやつは孤独だ。そして人は誰しもある程度「ボケたやつ」なのだ。ひとりひとりのボケ散らかした姿を知りたい。身も蓋もなく言えば、わたしはそういう欲望を抱いている。自分もまた、誰にもなんの気兼ねもなくボケ散らかしていたい。とにかくボケたくて仕方がない、正しいことなんかひとつも言いたくない。しかし他方で、時代は「一億総ツッコミ」なんて呼ばれて久しい。孤独を許容しない時代といえよう。知らんけど……。長くなった。そろそろ帰ろう。

帰り際、横浜駅の近くにあるソープランドを横切ったとき、ふたりして「お風呂のにおいがするー」と声を合わせた。いいにおいだった。改札ごしに手を振ってお別れ。見送っていただく。楽しい一日でした。ふだんしないような慣れない話を長時間していたせいか、翌日の朝、頭がクラクラした。

そうだ、もうひとつ。わたしが道端のうんこを踏みそうになったとき、大声を上げて必死で阻止してくださり感謝しています。おかげで、うんこを踏んで「運がつく!」などと哀しい合理化をはからずに済みました。このご恩は一生忘れません。








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