いわゆる「傾聴」にはなんやかんやメソッドがあるけれど、むずかしいことではなく、じつは多くの人が日常的に実践していることなんではなかろうか。しかし、それが「傾聴」と呼ばれることはない。それはなにか。フィクションの受容だ。 たとえばアニメのポケモンを見るに際し、「あんなモンスター存在しねーだろ」といちいちケチをつける人間はたぶんいないだろう。カプセルから“ピカチュウ”なる黄色い小動物が出現し、「ピッカー!!」などの奇声を発しながら電撃を放つ、現実に展開したら恐ろしすぎる光景も「そういうもの」として受容できる。めっちゃ空想的だけど、「空想だ」と揶揄する人もいない。それはそれ、として楽しめる。つまり、リアリティが混線しない。 ここに傾聴的な態度があると、わたしは思う。 一方でこれが目の前の他者となると、リアリティの混線が起こる。自己の主観的な基準を手放すことなく、ある程度の同質性を期待してしまう。自分とはまるでちがう身体をもって、まるでちがうものに触れ、まるでちがうことを考え、まるでちがう時間を生きているあなたは、こちらからすれば及びもつかないひとつの虚構のようなものだ。実在しない、という意味ではない。あなたについて、わたしは想像することしかできない。容姿、ふるまい、コミュニケーションなどの断片をもとに、人物像を思い描くだけである。その意味において、虚構的だと感じる。わたしもまた同様に、あなたからすれば想像の産物だろう。わたしの目の位置から同時に世界を眺めることは、かなわないのだから。どんなに近づいていようとも、重なることはありえない。 人間の“現実”は想像的なものに多くを負っている。キリストも仏陀もムハンマドも、いまとなっては想像するしかない存在だ。それでもなお“現実”に影響を与えている。「リアリティライン」はフィクションの分析に使われることばだが、“現実”においても異なるリアリティラインが幾重にも錯綜しているようである。わたしにはそう思えてならない。 不信の停止(willing suspension of disbelief) という概念がある。イギリスの詩人・哲学者、サミュエル・テイラー・コールリッジが確立したとされる。あるいは、雑に並置してしまうと 好意の原則( principle of charity ) も似たような話かもしれない。なにか「他なるもの」を解するに...