斎藤環『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)を読み終えた。オープンダイアローグという対話による心理療法の思想的概説書、みたいなもの。この本について、あるいはこの本から連想したアレコレについて、適当に書いてみたい。
共通感覚(common sense)が「回復」の要かなとわたしは思っている。ようするに、特異化し過ぎ/され過ぎた部分をどんなかたちであろうが自他ともにフォーマライズする/される/できるようになることが「回復」と呼ばれるのだろう、と。ごく大雑把に、ごく単純に……。「ひらかれた対話」がそれに資することは想像に難くない。
自分なりの観点から読み換えるなら、『イルカと否定神学』で詳細に検討されているベイトソンのターム、「コンテクスト(文脈)」が共通感覚の構築過程に寄与するのだと思う。「ふつう」などの漠たる概念は多分に文脈依存的だろう。
たとえば、アルコール依存症は広い社会の文脈では特異化されるが、依存症者の集まるピアカウンセリングの場ではそれが「ふつう(フォーマルな肩書き)」として機能する。そうした場に身をおくことで、当事者はそれぞれのことばの動因を得ることができる。そこで醸成されたことばの運動力が徐々に「回復(自己のフォーマライズ、主体化と言ってもいい)」への足がかりとなっていく。
場の文脈や、個々の人間が持ち寄る文脈はことばを賦活するうえで非常に重要な鍵となる。ベイトソンが提唱した「コンテクスト」には複雑な含意があるようだけれど、ここではだいたい「文脈」でいいことにしておく。が、いちおう『イルカと否定神学』から説明を引用する。「複雑な含意」の雰囲気だけお伝えしたい。
“ちょっと回り道になりますが、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソン(1904 - 80年)が提唱した重要な概念に「コンテクスト」があります。ベイトソンによれば、刺激のコンテクストとは「基礎的信号を分類するメタメッセージ」ということになります。
ちなみにベイトソンは「刺激のコンテクストのコンテクスト」について「メタメッセージを分類するメタ・メタメッセージ」といっています。ちょっとわかりにくいですが、ベイトソンがあげている例を見てみましょう。
芝居のなかで殺人事件が起こりますが、だれも警察に通報しません。なぜでしょうか。劇中の人間関係のコンテクストは、さらに「芝居」というコンテクストのなかに置かれているからです。このとき、芝居のポスターや指定席の標示などが、芝居(コンテクストのコンテクスト)のマーカーということになります。この「コンテクストマーカー」という言葉を覚えておいてください。”(pp.184-185)
わたしの記事を読むぶんには覚えなくても大丈夫。だいたい「文脈」や! だいたいでええんや! と、このような豪快で鷹揚(裏を返せば、雑でいい加減)な態度は、わたし自身のパーソナリティに由来する文脈である(斎藤氏の描く文脈では、ちゃんと覚える必要がある)。
お堅い雰囲気が苦手なので、ちょいちょい「ゆるくいきましょう」というメタメッセージを発し、自分が記述しやすい文脈を構築している。これは引用した説明の説明でもある。「文脈」は「雰囲気」にも近いか。「雰囲気」は場や人の発するメタメッセージそのものといえる。
また、芝居の例示から為末大の『熟達論』にある指摘を連想した。以前もとりあげた(
日記1016)「ごっこ遊び」の話。
“例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。
この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。”
「ごっこ遊び」をめぐる、二つの相反する姿勢。芝居を楽しむためにも、同様の相反する姿勢が求められる。さらにいえば、ことばをドライブするためにもこの相反する姿勢は欠かせない。多くの人は自然と身につける、虚実のあわいを縫うような演技の作法。文脈の揺蕩い方。
ベイトソンの理論に引きつけるなら、矛盾するメッセージのなかで板挟みになるダブルバインド状況に似ている。日記1016では、ごっこ遊びの例を「社会性の話」として敷衍した。基本的にわたしたちの社会は、やんわりとしたダブルバインドによって駆動されているのだと思う。信じ過ぎても、疑い過ぎてもいけない。
オープンダイアローグの原則のひとつに「不確実性に耐える」という項目がある。これは精神の健康の指標そのものかに思われる。「不確実性に耐える」というと、なにやらものものしいシリアスな印象を受けるが、「よくわからんでも、まーつづけてこ」ぐらいの感覚なのだと勝手に意訳している。いい塩梅の楽観性が精神の健康を担保するのではないか。しらんけど、まーなんとかなるっしょ。みたいな。「どうにもならない(疑い過ぎ)」でも、「こうしなきゃ(信じ過ぎ)」でもなく、「なんとか適当にやりますか」。
いまの日本社会がそうした無根拠な包容力を許容しないのだとするなら、それはもう社会が病んでいるのだとわたしは思う。
「よくわからんが、なんとかなるだろう」というとき、前段の「わかる/わからない」は言語的な問題であり、後段「なんとかなる/ならない」の予兆は身体に依拠した経験的な感覚なんではないか。こう分解すると、『イルカと否定神学』でなされていた指摘にもつながる。斎藤氏は言語とコンテクストの基盤には身体がある、としたうえで以下のように述べる。
“ここで一つの興味深い事実があります。言語にとってもコンテクストにとっても、その基盤としての「身体」は、ほぼブラックボックスのような位置にある、ということです。実際、レイコフらの議論以前に、「言語の基盤としての身体」はほとんど検討されていませんし、コンテクスト学習の提唱者であるベイトソンも、コンテクストと身体の関係についてはほとんど言及していません。”(p.232)
「身体」という基盤はブラックボックス的だと。なんとなく頷ける。わたしは自分がどうやってしゃべっているのかわからない。なにをしゃべるかも、事前に決めることはあまりない。でも、人間と顔を合わせれば即興的にしゃべることができる(相手や自分のコンディションによってはダメなときもある)。書くことも似ている。「なにをどこまで書こう」なんて毎回ほぼ決めていない。「なんか出せるっしょ」と、いわば身体を信じて、あーだこーだやってるうちにできてくる。
決めていない。それは、いまこのときの主観(一回性)を中心に据える態度であり、かつ主観の変容を楽しむ態度でもある。オープンダイアローグの実践は「主観と主観の交換」であるといわれる。その場に集まった人々の多様な主観的文脈が離合集散するなかで治療者/患者の別なく各人になんらかの変化が生じていく。
自分ひとりの身体のなかにも、たくさんの人がいる。そのざわめきに耳を傾けながら文字を書き出す。言語も身体も、始まりは複数性に根ざすものだ。「個」としての実存は遅れてやってくる。わたしの文章は論理的ではない。接ぎ目がゆるい。対話的な連想過程をエンジンとしている。そのせいか矛盾も厭わず、思わぬ飛躍によろこびを見出せる。いや、雑な性格であるだけの可能性も否めない。
『イルカと否定神学』では、単純な因果思考の弊害を指摘する中井久夫のことばが引かれている。
“患者に対する人間が因果思考を強化する態度に出ることは有害であると私は思う。われわれは、「なぜ」「どうして」ということばを患者に向けて使いすぎないであろうか。”
因果思考の有害性は感覚的にわかる。たぶん、慢性的にわたしは「なぜ」「どうして」の問いに苦しめられている。自分のなかには理由への強迫(過剰な文脈構築性)と、そこから逃げるように無意味さへ向かう衝迫(脱文脈性)が共存している。意味のなさが無性にうれしい。
中井久夫でいえば、次のことばも頻出する。
“自己は世界の中心であると同時に、世界の中の一人あるいは一部であるということです。この二つのことを同時に感じることが精神健康の目安のひとつです。”
自己は唯一の人間であると同時に、たくさんいる人間のなかのひとりでもある。「なんとかなる」の話に紐づけると、「どうにもならない」となるとき主体は埋没し過ぎている。集団のなかのひとりであり過ぎる。「こうしなきゃ」という焦慮は逆に、唯一性が強化されている。この「精神健康の目安」は多くの場面に応用が利く。
“ちなみに、ほかの「精神健康の目安」として、「まとめる力とひろげる力(の共存)」と「内界と外界の区別」があげられています。”(p.90)
だそうです。もうひとつ、『イルカと否定神学』に頻出する中井の名言がある。
“脳の影が精神であり、精神の影が脳である、あるいは脳から出発すればどこまでも脳で、精神から出発すればどこまでも精神です。出発点をどこにとるかです。”
「自己は世界の中心」と「世界の中の一人」のあいだにも、似たような論理の出会えなさがある。どこに基礎を置くかで脈絡のつけ方は様変わりする。「語り口の問題」というか。わたしの粗雑な勘でいえば、理系と文系の噛み合わなさも似た構造なのではないか。さらに連想を広げると、書きことば(文字)と話しことば(声)のあいだにも交わらない差違がある。他方で、いま挙げたすべては表裏一体でもある。すくなくとも、現代の先進国においては。
精神科医の神田橋條治は、文字言語の機能に心身が乖離する一因をみている。以下、『治療のための精神分析ノート』(創元社)より引用。
“われわれが生きている実相を味わってみると、それは「いのち」というコトバで漠然と指し示すしか術のない「心身不二」のありようである。それを観察して論じたり記述したりする「いじり」がおこなわれることで、心身が乖離してしまう。「いじり」のプロセスはまず不動不変の真理を得て記述しようとの願望と意図があるその意図に役立つように観察がなされる。不動不変の記述とは文字言語の機能である。切り分けし固定する機能である。乖離は必然である。”(p.2)
斎藤環いわく、膠着した「小さな真理」の文脈に揺さぶりをかけるのが対話実践だという。神田橋の精神分析観はそれと似ていて、膠着した「不動不変の記述」に揺さぶりをかける、そのようなものとして読める。「精神分析とは文字言語を神の地位から降格させ、最高の道具という本来の役割に戻そうとし続ける運動である」と神田橋は書く。行きすぎた文明化のプロセスを、そっと巻き戻すようなイメージだろうか。
表現の仕方や方法論は違えど両者はきっと同じことを目指している。文字言語的な刻みつけられた文脈に、声を通して運動をうながすこと。あるいは「世界の中心」と「世界の中のひとり」を往還しつづけること。疑心と信心をしなやかに揺動させること……。声と文字の観点は『イルカと否定神学』では触れられていないが、深掘りできる補助線だと思う。
とかく肝要なのは「運動」なんだろう。そして現に動いているものの記述は、しばしば逆説をはらむ。アキレスと亀のパラドックスはその典型かもしれない。大雑把にいえば「アキレスと亀」は、単線的な因果連関に依拠した文字的思考様式からくる記述の問題ではないか。『イルカと否定神学』でも記述の問題が「否定神学的構造」として繰り返し取り上げられる。
そのへんを読みながらわたしがぼんやり思い出したのは、保坂和志の『カンバセイション・ピース』だった。このなかにテルトゥリアヌスという神学者のことばがある。
“「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いがない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」”
これに関して保坂氏は以下のように述べる。
“あれは矛盾の力によって感情のリアリティに訴えかけるというようなことではなくて、言葉の両端を極限まで圧縮した結果で、矛盾なんかどこにもない剥き出しの現実そのままだったんじゃないか。ありえないことは事実で、信じられないことは確実なことなのだ。”
生の一回性と、再現性(複数性)を同時にあらわした表現なのだとわたしは思う。わたしたちはいつ、なんどきも、どうしようもなくひとりであり、同時に、どうしようもなく複数で生きる存在である。一回性はありえないほどの偶然の事実であり、繰り返す日々の再現性は信じられないほど確実に思える。
心理療法には一回性に重きをおいたものと、再現性に重きをおいたものがある。オープンダイアローグは前者に比重を置きながら(不確実性に耐える!)、後者にも目配せを利かせた(対話を継続する!)バランスの良い心理療法なのだと思う。いわばヒトという生き物の実相をできるだけそのまま写し取るような、単純な方法なのだけれど、「現実そのまま」であればあるほど逆説や矛盾にまみれてわかりづらくなる。たぶんね。
わたしたちは論理的に出会い、論理的にことばを交わすわけではない。わかりやすい因果はたいていあとづけに過ぎない。現実の大部分はありえないこと、信じられないことによって構成されている。それが「ふつう」なのだ。
長いのでそろそろ終わろうと思うが、もうひとつ。斎藤氏が論じる「言語の否定神学性」を受けて、わたしは tumblr で拾った次のことばを想起していた。
“想像力がある限り、世界は完成しない”
ヤン・シュヴァンクマイエルのことばとして流布している。表現の微妙に異なる似たような意味の文言がウォルト・ディズニーの名言としても流布している。誰が言ったか知らないが、これはその通りだと思う。言語も同様に完成しない。わたしたちは、誰でも例外なく半端者である。途中で生まれ、途中で消える運命にある。いくつもの物語の途中で。だからこそ、つなぐことができる。動くことができる。話すことができる。対話は終わらない。終わらなさがしんどいときもあるけれど、いつかは終わる。というか、刻一刻と終わりゆく。過ぎた日々は二度と戻らない。それはそれとして、ありがたい。
めでたしめでたし。
もう12月です。
ちゃんとつなげた。
やあ奇跡。余談ながら taizooo さんの存在は tumblr を介して、おそらく10年以上前から一方的に存じ上げておりました。わたしの tumblr は2008年から稼働しています。
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