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日記1029

いわゆる「傾聴」にはなんやかんやメソッドがあるけれど、むずかしいことではなく、じつは多くの人が日常的に実践していることなんではなかろうか。しかし、それが「傾聴」と呼ばれることはない。それはなにか。フィクションの受容だ。

たとえばアニメのポケモンを見るに際し、「あんなモンスター存在しねーだろ」といちいちケチをつける人間はたぶんいないだろう。カプセルから“ピカチュウ”なる黄色い小動物が出現し、「ピッカー!!」などの奇声を発しながら電撃を放つ、現実に展開したら恐ろしすぎる光景も「そういうもの」として受容できる。めっちゃ空想的だけど、「空想だ」と揶揄する人もいない。それはそれ、として楽しめる。つまり、リアリティが混線しない。

ここに傾聴的な態度があると、わたしは思う。

一方でこれが目の前の他者となると、リアリティの混線が起こる。自己の主観的な基準を手放すことなく、ある程度の同質性を期待してしまう。自分とはまるでちがう身体をもって、まるでちがうものに触れ、まるでちがうことを考え、まるでちがう時間を生きているあなたは、こちらからすれば及びもつかないひとつの虚構のようなものだ。実在しない、という意味ではない。あなたについて、わたしは想像することしかできない。容姿、ふるまい、コミュニケーションなどの断片をもとに、人物像を思い描くだけである。その意味において、虚構的だと感じる。わたしもまた同様に、あなたからすれば想像の産物だろう。わたしの目の位置から同時に世界を眺めることは、かなわないのだから。どんなに近づいていようとも、重なることはありえない。

人間の“現実”は想像的なものに多くを負っている。キリストも仏陀もムハンマドも、いまとなっては想像するしかない存在だ。それでもなお“現実”に影響を与えている。「リアリティライン」はフィクションの分析に使われることばだが、“現実”においても異なるリアリティラインが幾重にも錯綜しているようである。わたしにはそう思えてならない。

不信の停止(willing suspension of disbelief)という概念がある。イギリスの詩人・哲学者、サミュエル・テイラー・コールリッジが確立したとされる。あるいは、雑に並置してしまうと好意の原則(principle of charityも似たような話かもしれない。なにか「他なるもの」を解するにあたって、ひととき「そういうもの」として受容する原則的な態度。書物を紐解くように、映画や演劇を観るように。漫才でもなんでもいいんだけど、いったん「そういうもの」としないことには、なんら理解できない。

フィクションの受容に関して多くの人が身につけている物腰が、“現実”の対人関係に応用されることはあまりないように思う。虚構と現実はそこまで分かれていないだろうと、わたしなんかは感じてしまう。もう何年も前から、ずっとそう思っている。

人間というのは、誰でも例外なく創作者なのだ。生まれてから死ぬまで否応なく、つくりごとに勤しむ。つくり、つくられ生きている。そうせざるをえないようにできている。あらゆるコミュニケーションは第四の壁越しに行われている。第四の壁は、その人がその人であるための輪郭みたいなものかもしれない。ときに恋をしたり、感動したりすると、そこがスコーンと開通する。激しい感情を抱くときには、メタがなくなる。虚実が綯い交ぜになった汽水域に放り出される。

以上のような人間観はおそらく、どこにも馴染めない余所者としての自己意識からきているのだろうと思う。むかしから、ちいさなワイプ画面からVTRを眺めるように、自分をふくむ世の中を眺めている気がする。

今年のいつだったかビリー・ワイルダー監督の映画『サンセット大通り』を観たとき、執事役の立ち位置に共感した。忘れられたかつてのスター女優、ノーマ・デズモンドが主人公。ノーマはしかし、過去の栄光を引きずり自分が現役のスターなのだと最後まで信じてやまない。執事のマックスが彼女の幻想を支えつづけている。花弁をすべて落とし、棘だらけになって枯れても、薔薇は薔薇だと信じる。虚実の境で二重の画を見るマックスの役回りが、自分の対人感覚と重なるように思えた。

虚無を尻目に、意味があるかのように繕いつづける。ほとんど無意識に、いくつかの“現実”を調停するような振る舞いをしている。だれでもきっと、ノーマ・デズモンドのような勘違いした憐れさを抱えて生きている。自意識は幻想の箱庭だと思う。

ある時点で止まった時間と、そんなものは関係なく過ぎ去った時間。『サンセット大通り』では、この両方が強いコントラストで描かれる。わたしの父方の祖母は認知症で、とっくのむかしに亡くなった親戚や友人がまるで現在も生きているかのように語りはじめる。それは「ボケ」というよりも、余計な「理解」や「解釈」などが削ぎ落とされた“現実”を剥き出しにあらわしているだけなのだと、祖母の話に相槌を打ちながらいつも感じる。過去の止まった時間が繰り返し、何度も何度も再生される。いつかも書いたけれど、きわめて音楽に近い。その日の気分に乗じてループを組んでいる。そんな創作物に相槌で参加しながら耳を傾ける。

ともかく他者というのは自分にとって、書物や映画や音楽などの創作物とあまり区別がない。そういえば、「可能性とは他者のことだ」と2024年の1月に書いた(日記1014)。他者は虚構的であり、虚構は可能的なものの総体。つまり可能性である。年始に考えたことが、年末に一回転してつながった気がする。

まだ年末(12月31日)だと思っていたら、24時を過ぎていた。まあいいや、公開日時をごまかしておこう。標準時に合わせて全員もれなくビシッと年が明けるなんて、気持ち悪いです。全体主義です。遅刻する人間のひとりやふたりいたほうが、むしろ健全でしょう。それどころか、まだ90年代をさまよっている人だっているかもしれない。依然、昭和の人もいるでしょう。リニアに過ぎ去る時間だけではなく、人間は多様な時間感覚を内に秘めて生きるものです。以上、遅刻の言い訳でした。

というわけで、よいお年をお迎えください。



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