このブログでは、精神疾患への対処法のひとつであるオープンダイアローグに何度か言及しておきながら、その要とも言える「リフレクティング」について触れていなかった(と思う)。そういえばと、白石正明『ケアと編集』(岩波新書)を読んでいて気がついた。まず「リフレクティング」の説明を『ケアと編集』からすこし長めに引用したい。
“オープンダイアローグでは、家族などを含めた患者側グループと、治療スタッフ側グループが対話をする。セッション中のある時点で、治療スタッフは「ではここでわたしたちだけで話してみます」などと言ってスタッフ同士で向き合い(患者側をいっさい見ないのがお約束)、これまでの対話を聞いてどう思ったかを話し合う。
つまり患者の前でケースカンファレンスを行うようなものだ。その様子を患者側は「側聞」する。いわば自分についての噂話を聞く形になる。
もし日常生活において、「自分についての噂話」がドアのすき間から聞こえてきたらどんな感じだろうか。自分をバカにする声だけが聞こえてきたり、「あれをやれ、これをやれ」といちいち指図してくるような否定的な内容だったりしたら、死にたくなってしまうだろう。幻聴の多くはそういうものだ。
でもそれが逆に、肯定的な内容だったら? 舞い上がっちゃいますよね。舞い上がらずとも、そこでスタッフの専門家としての考え方や個人的な感想が述べられたら、正面から指導・助言されるよりはるかに説得力が増すのではないだろうか。「側聞」が潜在的に持つそんな増幅機能を、リフレクティングは十全に使っているような気がする(SNSが人間のコントロールを超えた影響力を持ってしまうのも、それが巨大な側聞システムだからかもしれない)。”
(pp.85-86)
とても興味深いと思う。
前々回(日記1036)取り上げた動画のなかで、臨床心理学者の東畑開人さんが「心を変えるっていうと心に直接アプローチするふうにみんな思うんだけど、ちがうんすよ、やっぱり間接なんすよね、間接のほうがリアルなんすよね」とおっしゃっていたことともつながる。
そうなんすよ、間接なんすよね。
「間接のほうがリアル」は、じつはありふれた心理なんだけど、改めて俎上に載せたり技法化されたりすることって、あまりなかったのではないか。
多くの人はすでに知っている。たとえば、水曜日のダウンタウンなどのドッキリ企画ではお馴染みの構図でもある。仕掛け人が席を外し、隠しカメラでターゲットの「本音」を確認する場面のリアリティ。その典型として「陰口引き出し王決定戦」なんかが思い出される。飲みの席で、仕掛け人が後輩芸人たちに理不尽な文句をつけ出て行く。そこから始まる生々しい陰口をモニタリングする。いちばんひどい陰口を引き出した人が優勝となる。のちの関係性にヒビが入る「リアルな」企画。いわば破壊的リフレクティングといえる。
あるいはもっと単純な話、VTR内で頑張るタレントに対してスタジオ内でワイプ越しに反応を示す人々がいる。日本のテレビ番組ではすっかり定着した見せ方。あの「ワイプコメント」がリフレクティングの位置に近いかもしれない。ワイプに映る人間は、視聴者の声を半ば代弁するように反応している。
オープンダイアローグのリフレクティングは、「陰口」や「噂話」や「ワイプコメント」といった、ベタな地平では可視化されない(されづらい)想像的なメタ領域を可視化し、手当てを施す。わたしの考えでは、この「想像的なメタ領域」は「社会」「世間」「みんな」「ふつう」「現実」といった、実体のよくわからない茫洋とした概念が位置する領域でもある。すべて、まことしやかな噂話のように形成されていく謎概念であるとわたしには感じられる。
それらの謎概念は明確な実体がないだけに、暴走も招きやすい。すこしバランスを崩すと、社会やら世間やらみんなからバカにされているような気分になる。孤独に過ごしている人は、とくに。直接的にも間接的にもなされる日々の言語活動が、そのへんの茫洋たる他者モデルを保全する活動にもなっているのではないかと推察する。会話とは、“現実”の保全活動である。
すこし逸れるかもしれないが、太宰治の『人間失格』を思い出した。主人公の大庭葉蔵が(世間とは個人じゃないか)という思想を持つようになる場面。青空文庫から引く。
“世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
「
と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。”
世間とは個人。もうすこしことばを加えれば、個人個人のもつ「他人とはどういうものか」という漠然とした観念の集合なのだと思う。その漠然とした他者モデル(「こう見られるであろう」という予測)が各自の倫理観を担保していたり、厳しすぎると苦しみの元になったりもする。
「漠然とした観念」でしかない「世間」という第三者を「あなたでしょう?」と二者関係に置換することで大庭はすこし自由になり、酒量も増えていった。それがよかったのか悪かったのかは措くとして、漠然としたものを具体化することはひとまずの「対処法」として有効なのだろう。
オープンダイアローグは第三者的視点を第三者的視点として具体化する。大庭の「思想」は第三者をなきものとし、即物的な二者関係だけを取り出す。ここは大きな違いだ。「世間」を振り切って、「あなたとわたし」の二者だけにフォーカスする仕方には、バランス感覚を欠いた危うさがある。
堀木の言う「世間」というのは、時間的な猶予を含意している。「いまに世間から葬られる」の「いまに」が象徴的だ。ここには「そろそろ」とか「やがて」とも言い換え可能であろう幅がある。「(自分ではなく)世間が〜」という間接的な物言いは、「今すぐ」ではないが、近い将来たいへんなことになるぞ、というふくみをもつ。衝突を避ける堀木なりの間合いがある。
これが「私があなたを許さない」となると間合いが一気に詰まって即対決モードになってしまう。会話の余地がなくなる。ことばは、ある程度の時間的な幅があってこそ開かれていく。大庭の「思想」は正論であるが、正論には二の句を継ぐ余地がない。第三者的視点を欠いた物言いは、愛し合うか殺し合うかの極端な世界観に陥りやすい。
『ケアと編集』には、精神科医・斎藤環の語る「対話を続けるための心得」が紹介されていた。いわく
“対話を長く続けるために大事な心得は、「大事な話ばかりしないこと」です。大事な話をすると終わっちゃいますからね、対話が。”
そう、「大事な話」は終わりを告げる。
孤独な話なのだと思う。
堀木は文字通り「世間話」をしているのだが、大庭の内言は「大事な話」を語っていた。それを言ったらおしまいになる、大事な話。大庭自身もそれはわかっているから、言わない。前提として、堀木は世間のなかでしゃべっているけれど、大庭はそのなかにいなかった。だから通じない。依拠するリアリティのすれ違いが描かれている。
言うなれば堀木はワイプ越しにしゃべっていて、大庭はVTRのなかにいる。そんな違いなのではないか。リアリティの位相を照合しないことには、話が噛み合わない。
日記905 でもチラッと言及したように、「恥の多い生涯」とはリアリティにズレを来した生涯なのだろう。水曜日のダウンタウンでいえば、『人間失格』の大庭葉蔵は名探偵津田に似ている。「1の世界(虚構)」と「2の世界(現実)」の狭間でディスコミュニケーションを繰り返す津田篤宏のように、大庭も異なるリアリティのあいだで人々とすれ違いつづける。そしてその道化っぷりは、じつはわたしたちの似姿でもある(な、なんだってー)。
半分ふざけて書いてみたが、半分は本気でそう思う。すくなくともわたしは、よくわからない虚構の狭間に嵌りこんで頭を掻きむしる毎日である。
東畑開人さんは動画のなかで「元気な人と弱っている人とでは、見えてる風景が違う」と話しておられた。それってワイプ的な視点(元気な人)と、VTR内で右往左往する視点(弱っている人)のちがいなのではないか。堀木と大庭の「通じなさ」と同様に。世間のなかの安全圏から発せられることばは、世間の外の危険域にいる人には届かない。
オープンダイアローグの「リフレクティング」という技法はたぶん、こうした視点の差を貫通させる効果がある。リアリティのズレを整理する方法なのかなぁと、これを初めて知ったときに思った次第。
当たっているかはわからない。適当な思いつきに過ぎないかもしれない。ただ、ずっと薄ぼんやり考えていたことを外に出せたので、ひとつスッキリした。
基本的に多くの人の言語活動は「社会」「世間」などの第三者的視座のもとで行われている。その内側にいない人は、よるべのない「自分のことば」で語っているのだと思う。心理的なリージョンを探知しないことには、同一言語であれ通じない。大庭葉蔵が暗に求めている、一人称と二人称の範囲で考えること。いまこのときだけのことばでしゃべること。そうした地を這う視座を得て初めて、彼と出会うことができる。
顔を合わせていても、ことばのうえでは出会えていないことって、たくさんあります。
むきだしの「大事な話」を、それとなく隠して話をつづける。隠せるようにする。それが「開かれた対話」の効用なのかなと、以前そんなことを書いた(岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を引きながら)。変わらずそう思っている。
でもわたしは、ほんとうのところ、「大事な話」だけがしたい。暴力的な、乾いた地平における話。くだらない会話に明け暮れながら、その実、すべてを終わらせたいと願っている。良いものにせよ、評価などもうたくさんだ。四六時中、隠しきれない虚しさにとらわれて仕方がない。誰もいないところで静かに朽ち果てたい。
とかなんとかクダを巻きながら、あしたからも生きていくのでしょうね。
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