ハン・ジョンウォン『詩と散策』に、こんな書き出しのエッセイがある。
“今年になって初めて蟬の声を聞く。まだ力を出しきっていないようだが、鳴き声はしだいに熱を帯び、耳をつんざく。蟬は自分が短命であることを知っているがゆえに焦っているのだろうか。それとも知らないから一生懸命なのだろうか。
成虫になるまで土の中にいた時間に比べたら、ひと月に満たない寿命はあまりに虚しい。だから人間の耳には不快でやかましくても、下手に文句は言えない。いちばんつらいのは、ほかでもない蟬なのだから。
八月がいちばん熱い月である理由は、このような絶頂も衰退も持ち合わせているからだろう。”(p.51)
ここを読んで疑問が浮かんだ。蝉は自分のことを、どこまで知っているのだろうか。
蝉の個体がどこまで自分の命運を知っているのか、それは知りようがない。知りようがないだけに、どんな解釈でも勝手な投影にならざるを得ない。ハン・ジョンウォン氏も、なんだかんだ蝉の生に自身の尺度を重ねているように思う。
わからないけれど、蝉は土のなかで過ごしているとき、自分がいずれ地上に這い出して空を飛ぶようになるだなんて、夢にも思っていないのではないか。あいつらは何もわかっていない気がする。
蝉はたぶん、数年のあいだ土中で過ごしたのち、急にわけのわからない情熱に駆られ地上へ這い出すことになる。なんだか知らんがここから出ないといけない。もうほんとうにわけがわからない。でも行かなくちゃ。そうして地上へ這い出したと思ったら、そこからさらに上を目指す。ここがゴールちゃうんかえ!? 自分でもぜんぜん意味不明だけど、満足できない。もっと登んなくちゃいけないらしい。どこでもいい。そのへんの登れそうなもんにつかまって登るしかねえ。とにかくやるんだ。地上の環境は謎すぎるし、デカくてヤバそうな生き物がたくさんいるが、もうしょうがない。すげー嫌だけど、いまさら戻ることもできん。どうしてこんなことに。マジで最悪だ。などと内心で愚痴りながらも登りつづけ、その途上でさらなる謎の出来事に見舞われる。あれ、なんか背中割れそうなんですけど? どうしよう。我慢できない。これなに? なんなの? やだ、漏れちゃう! グエー死んだンゴ。と思いきや、どっこい生きてる! ハネ生えてるし! やば。飛べそう。っていうか飛べる。でも飛ぶの怖い! どこ行くかわかんねーし。どこ行くかなんて最初からわかんねーよ。じゃあ適当に飛ぶか。なんか泣けてくるなぁ。おしっこ止まんない。飛ぶの怖すぎ。いやこれ涙かも。わかんない。オカン、俺こんなんなる思わんかったわ。涙とおしっこの区別もつかん。夢みたいだ。ここが天国なのかなぁ。仲間もいっぱいいるし。しょうがない、とりあえず喚いて交尾でもしとくか。
ってな具合で夏を謳歌しているのではないかと想像する。むろん、これはわたしの人生観の投影でもある。だいたいこんな悲喜劇的なノリでやっている。たいていことはしょうがない。急にわけのわからない情熱に駆られて月へ帰りたくなったり、そのうち羽が生えて卵を産んだりしてもおかしくない。そしたらわたしは天使だってことだよね。なんで誰も教えてくれないんだろう。いっつも教えてくんないよね、こういうの。自分がおっさんになることだって、ぜんぜん知らなかったんだから。ふとももの裏が妙に毛深いのもさいきん知ったんだぞ。どうしてくれんだこれ。
それにしても蝉は飛ぶの下手すぎて傍から見ていてもおそろしい。まったく自分をコントロールできておらず、一挙手一投足が一か八かの賭けのように見える。トンボの安定感を見習ってほしい。交尾するにしても、あいつらはオス同士で交尾したり、別種間で交尾することも珍しくないらしい。人間みたいな性的指向うんぬんは関係なく、単に適当なのだろう。あらゆる挙動が偶然性の上にあって、「一か八か」なのだ。皆目なにもわからないがゆえに、すべてが賭けになる。そういう生き方をしているんではないか。ノリ以外なんにもない。わたしにはそう見える。
冒頭に戻ると、「いちばんつらいのは、ほかでもない蟬なのだから」とハン・ジョンウォン氏は書いている。氏の感受性を象徴するような、やさしい眼差しだと思う。わたしの見立てでは、蝉はそんな湿っぽい感情を持ち合わせたやつらではない。もっとアホである。これもまた自分の生き方とリンクした見方かもしれない。「なにもかも意味不明だが、こうなったらやるしかねえ」みたいな。
とかく、「わからなさ」をやたらと言い募りたくなる。それは何かに属している感覚の欠如からくるのだと思う。「知っている」という感覚の前提にはつねに、各人の依って立つ共同体が隠れている。この場合の「知っている」は知識の多寡とは関係がない。日本についての知識が乏しくとも「自分は日本に属す者である」という所属意識さえあれば、なにがしかの日本を語ることができる。
わたしの想像する蝉は、蝉としての所属意識に乏しい。蝉の生態を知らない。自分が蝉だと定義しきれないまま蝉をやっている。だから、あらゆることに戸惑ってしまう。わたし自身の姿は見た感じおっさんであるが、おっさんになりきれているかはわからない。ただ油断すると雄叫びのようなデカいくしゃみを放ってしまうことに、自分でもびっくりする。ここにおっさんがいる! と思う。さらに大きくいえば、わたしは人間であるが、ちゃんと人間であるのか(以下略)と、一時が万事この調子だ。人間、やれてますか? というか、人間ってなんですか。
対して、ハン・ジョンウォン氏の蝉は知っている。なんか、つらいことを。その「知」は『詩と散策』というエッセイ集全体のトーンでもある。かなしさ、虚しさなどを予期しながらそれでも生きていく人々へ、そうした共同体へ向けられた筆致だといえるだろう。
「知っている」という感覚にはつねに、「(われわれが)知っている」という複数性の裏打ちがあるのだと思う。「知」の裏には、自分が依って立つところの「わたしたち」がいる。ひるがえせば、「無知」とは孤独の謂である。「無知の知」とは、「ひとりであることを知る」という意味なのだとわたしは思う。
ブログを書かずにいると、ありがたいことに、「ブログをつづけなさい」というDMをいただく。あんまりひとりで生きていると、ことばを紡ぐモチベーションも希薄になりがちだ。とくに言いたいこともないし、すべてがどうでもいいし……。
しかし、じつは「無知なひとりの人間であること」は誰にでも共通する性質でもある。なにも知らない。帰属先のない、カテゴライズしきれない杳とした自己のあり方から始まり、ふしぎと誰かに届くことばもある。文章はべつに、知を誇示するためのものではなかった。自分が誰だかわからないから書く。名前を失うことから始まる。ずっとそうやってきたはずだった。
いただいたDMや蝉の観察などから、そんなことを考えました。ありがとう。ぼちぼち書きつづけてこーと思います(何度目かの決意)。今年も蝉がやかましい。そろそろ8月です。
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