数週間前、お引越しをするご近所さんから体重計をもらった。それから欠かさず自分の重みを計っている。だいたい58kgの周辺で推移。いまが理想的な重みであると思う。たどりついた感がある。筋肉はほどほどでいいから、あとは身体の緊張をほどきたい。かたい。なめらかにいかない。なにひとつ。淀んだ四月の中にいる。 何かが動き出してしまった、ということを痛いほど感じさせられる瞬間なんて、人生にそんなにたくさんはないだろう。いや、たくさんあっちゃたまらないといった方がいい。でも、そういう瞬間はやっぱり襲いかかってくるし、それがひとつもなくなったら、たぶん人間は死んでいる。 望むと望まざるとにかかわらず、そういう激動と変化が潜在的にわれわれをおびやかしている。それで人生というものがいつも不意の驚きに彩られる仕儀となる。 ことばもなめらかに発せない。しかし書き写しだけは異様なほどなめらかにできる。キーボードでも手書きでも気になるところは写す。書写だけが軽快。谷川俊太郎と大岡信の往復書簡『詩と世界の間で』(思潮社)。大岡信による返信の抜き書き。読み始めたばかり。 「たくさんあっちゃたまらない」に苦笑した。そうそう、と。たまらないけれど、来るものは来る。「襲いかかって」というほどのわかりやすい獰猛さはないのかもしれない。静かに淡々と背景の色は移りゆく。二時間経ったら、ひと晩明けたら、かたちが変わるほうがふつうでしょ。変わるだけ変わればいい。いま手元にあるものも、秒刻みでかっさらって。 きょうベビーカーの中の女児と目が合って、すれ違いざま手をふってきたのでふりかえした。となりにいた自分の母に「知り合いがいたの?」と聞かれて、「こどもがいたから」とこたえた。知ろうが知るまいが誰にでも手をふってみたい。こどもみたいに。どうしてそれができないのだろう。なんて無邪気もたいがいにしろと思う。 「あんたもがんばってね」と87歳のおばあさんに声をかけてもらった。祖母の友人からの電話。「おばあちゃん、入院したんです」とおつたえする。祖母の名前を、ちゃん付けで呼ぶ。古い友人らしい。わたしは面識がない。いくつになっても「ちゃん」。父の名前も「ちゃん」で呼び、懐かしげに語る。わたしとは「あんたが赤ちゃんの頃に会ったわね」と。「ちゃん」の鮮度がきれいに保存された関係性の変化のなさ...