ことばは模造です。実体とはちがう。複製のにせものとしてあり、疑いをさしはさむことによってドライブする。なんとでも言えてしまう。文章はいつも疑いの明滅とともにある。疑えぬ内実に付け加えるものはない。
「信じる」ではなく「疑えない」と感じてしまう、その瞬間が重要かもしれない。なんとでも言えるはずなのに。あきらめてひれ伏すような。どうにも沈黙するほかなくなるような。はっとする。あるいは、うっかり喉に滑り込むような。
それはきっと日常のさまざまな場面に潜在している。書物の中で触れた一節に、身近な人の何気ないひとことに、街でふいに入り込んでくる音楽に、壁の落書きに、ネットの書き込みに、美術館の隅に置かれた作品に、眠りを待つあいだのひらめきに。
ひとときことばが止む。声を失う。ひとときだけ。時間が経てばまた湧き上がる。永遠にひれ伏した状態ではいられない。そんなにうっかりしちゃいられない。疑念の停止は持続しない。揺らいでいる。確固たる信にはたどりつけず、きょうにはきょうのおしゃべりが始まる。まるできのうの沈黙をあがなうように。
疑いを入れずに措く時間は、ちょっとした、罪深い愉しみなのかもしれない。そこに文字を通過する愉しみがある。ことばに耽溺する愉しみ。「ここにほんとうがある」と、つかの間ふと思う。ひとりきりの罪深い沈黙に浴す。紙の切れ端に一切を感じる。いっときの信を足がかりにして、ふたたび尽きることのない疑問へ踏み入る。信念と疑念の狭間で息を継ぐ。そんないとなみの階梯が人の生活を賦活する。
図書館のちかくで、若い男女が向かい合っていた。小雨のなか。ただならぬ雰囲気。階段の半ばにふたりとも突っ立っている。傘はさしていない。赤い髪色の女性と、マッシュヘアの長身男性。赤が泣きじゃくる。何か言いたげに下を向くマッシュ。通りがかるわたしに気づいてか、押し黙ったままのふたり。
急に雨足が強くなる。マッシュが無言で傘をひらいて、赤の上にそっとかざす。ほほえむマッシュ。赤はしかめっつら。その横をごきげんなスキップでぴょんぴょん通過するわたし。ふたりの人生の1ページに刻みつけてやるつもりで無駄なステップを踏みまくりながら階段をのぼった。これから喧嘩するたび、階段でノリノリだったおじさんを思い出してほしい。喧嘩だか別れ話だか知らんけど。わたしのことなんかハナから気にしていなかったかしらん。
図書館で『武学探求 巻之二 ―体認する自然とは―』(冬弓舎)という本を借りた。甲野善紀さんと光岡英稔さん、武術家おふたりの対談。この中で甲野さんが「思考は二次元的だ」みたいなお話をされていて、僭越ながら我が意を得たり!と膝を打った。わたしも以前より、かなりちかいことを思っていたから。このブログにも何度か書いている。
空間の捉え方が直線的というか。曲線を解する軸がひとつ抜けている感じがします。3次元じゃなくて、認識が2次元なのかな。2次元にも曲線はあるか。とにかく曲面全般が体感としてわからない。まっすぐな平面の上で生きている。
――日記521
空間とあまり上手に関係できていない気がする。軸が抜けている。紙が好きだ。平面。ディスプレイでもいい。「二次元萌え~」とかそういうんじゃなくて。そもそもの認識が平べったいのだ。平面に生きている。
――日記583
つまり言語優位に世界を捉えてきた結果としてこういう空間認識が身についたのだと思う。身体知をなおざりにしていた。ことばは事物のとらえどころをつくるものだけれど、この世界はもともととらえどころがない。身体はそのとらえどころのない「空間」という三次元の不安な地平に置かれている。
言語的な思考とは、世界の解像度を下げてわかりやすく説き起こした部分的な「とらえどころ」だ。ことばというクッションをあてがうことで生の不安をやわらげる機能もあると思う。わたしは不安を強く感じやすい性向であるぶん、言語偏重になったのかも。ことばの前に身体がある、そのことに留意せねばと戒める。
言語の基本的な性質としてひとつ「対応性」というものがあると思う。出来事に対応させる。切り貼りして辻褄を合わせる道具としての側面。因果を創作する。いっぽう身体はどんな「辻褄」とも関係なく収まりの悪いものとしてありつづけている……感覚がする。
自分の姿形に対応する名前はある。個人の呼び名から骨や筋肉の名称までいろいろある。でもそんな部分の寄せ集めではなんの説明にもならない、名付けようのない、よくわからない比類なきわたしがいまここにいる。メタフィジックスもひっくるめた統合的なフィジカルが質量をともなう謎として存在している。
下手に辻褄を合わせてはいけない。自分で了解可能なサイズに現実を歪めてしまうから。と、そんな話も『武学探求』にあった。身体表現とはつまり「わからなさ」の表現なのかもしれない。いやちがう。わからないまま「わからなさ」を騙し切る術だ。確信はないができなくもない。そんな宙吊りの試行が死ぬまでつづいてゆく。
みずからの身体性をもって思考としたい。できるかぎり身にまとうことばを立体化させること。わたしは歩き方ひとつから、まだわかっていない。なんとも言えない。試行として歩いている。どこか、まねごとみたいに。自分にはどんな歩みが可能だろうか。問いを挟みつつ、信じてみつつ。あたりまえと思い込んでいるところから洗い直したい。
コメント
イデアで世界を捉えるのがその昔「穢れ」だったという話しでしたっけ。いまいちはっきり覚えていませんが、その時は、「現実は現実だし、イデアで捉えようが現実として受け入れようが、要は認識の手法だから、どっちでもいいじゃん?」というのが、17歳の時の私の感想でした。
ところで、未来は思いも寄らないものですね。まさか知らないおっさんのブログのコメント欄に高校で習ったイデア論のことを書く未来がくるなんて、17歳当時のannaさんにはきっと想像もつかない。どこでなにがどう接続するのか。イデア論より、こんなささやかな運命論みたいなトコが気になります。