わたしたちは複数である。そう生まれた瞬間から決定づけられている。物理的に身体はひとつでも、意識は複数としてあるのだと思う。ときどき、パニック発作のような症状に見舞われる。そのときの孤絶的な意識状態から逆算して「人間は複数だ」と実感している。つまり、複数でなければ認知的な狂いが生じてしまうと。 パニック発作はわたしの感覚だと、「個であり過ぎる状態」として訪れる。「うつ病は死にたくなる病で、パニック障害は死にそうになる病」とよく言われる。これは自分の実感にも堪えることばだ。死とはおそらく、複数からの離脱を意味するのであろう。あたりまえといえば、あたりまえなんだけど……。 と、ここまでの文章は下書きに1年くらい放置していたもの。気が向いたとき、つづきを書くつもりだった。さいきんはうんざりするほど健康。なんとなく気力が湧いてきたので、気の向くまま書こうと思う。ちゃちゃっと掃除を済ますように。四角い部屋を適当に丸く。 意識は複数なのに、身体は離ればなれの個別である。たぶんこれが種の存続としてイケてる形態だから、そうなっているんだと思う。生物の大枠は種に奉仕すべく設計されている。人間も例外ではない。言い換えるなら生は複数としてあり、死は個個別別の最小単位にとどめられる。あたりまえだけれど、生き延びる側に都合がよいつくり。種という大きな観点から見渡せば、わたしたちは全員いわば「とかげのしっぽ」だ。 精神疾患について、ひとりよがりな仮説として思うのは、意識のあり方が「複数」から離反しちゃったとき発症するもんが大半なのではないか、ということ。精神科医の斎藤環氏が喧伝している複数人での対話療法、オープンダイアローグは典型的に「意識の正常な複数化」を目指しておこなわれる治療なのだろう。 芸能人にパニック障害の罹患者が多い(かに思われる)のも、「個」を強く意識せざるを得ない職業だからではないだろうか。むろん、ほんとうに多いのかはわからない。職業別の統計とか、あるのかな。あくまで、ひとりよがりな仮説です。このブログの記述はほとんどひとりよがりな仮説。生きているということに関する、いち人間の感想文に過ぎない。 人は「個」であることに耐えられない、と 日記744 に書いた。「カーブの向こう側や、壁を隔てた向こう側も世界が地続きであると自然に解釈する」とも。これを書きながら...