『「バカ」の研究』(亜紀書房)を読んだ。各界のアタマよさげな人たちに「バカってなんですか?」なんて聞いてみちゃったよ!と、そんな内容の本。我ながらバカな要約……。挙がっている学者の固有名に惹かれて手に取った。 「バカ」というお題に対して、いかなる返答をするか。罵倒語は誘惑的で、油断すると自分の嫌いなものをいいように投影したくなってしまう。「バカってテーマでなんか発言して」と頼まれたら、饒舌になる人は多いだろう。あんなバカがいる、こんなバカがいる、と。この本には地位あるアタマよさげな人たちがたくさん登場するけれど、罵倒語の誘惑に流されている人物もなかにはいたかな。あるいは、サービス精神なのかもしれない。 わたしの見るかぎり、その点でもっとも禁欲的な対応をしていたのは神経科学者のアントニオ・ダマシオだった。だいたいにおいて「一概にいえない」「なんともいえない」といった留保をつけながら話し始める。歯切れが悪く、いってしまえば地味な語り口。 しかし研究者としては、とても誠実。人間の「なんともいえない」複雑さを、なんとかしてつたえようとしてくれる。こういう誠実に地味な発言をする人物が個人的には好ましい。誘いに乗ってくサービス精神も嫌いではないけれど。自分の価値観では、まずなにより「誠実さ」を見てとりたく思う。 細かく考えようとするから、一概にはいえなくなる。わたしはそんな「きめ細やかな物腰」に好意を抱くらしい。引っかかりを押さえつつ、獣道にそっと分け入るためのことばづかい。その物腰は「感情のきめ細やかさ」がつくるのだと思う。論理は人間の感情をきめ細やかに感受し、すくいとるためにあるのではないか。すくなくともわたしは、そんなふうに論理を使っていたい。 植込みのつつじと金網との間の、枯葉が吹き溜った狭いところに、茶と白のぶち猫が横坐りしていた。三時を過ぎた陽射しを浴びて、眼をじっとつぶっている。「こんにちは」しゃがんで声をかけてみる。猫は黄色く澱んだ眼を片方あけ、口の端を「に」と剥いた。起されたついでに、痩せて汚れた白い左足を、舐めたくもなんともない風に舐める。 「細やか」で連想した。たとえば武田百合子のエッセイみたいな。『あの頃』(中央公論新社)の379ページ。適当にひらいた。どこをとっても、おなじ歩調だから。論理は「歩き方」なんじゃないかな。たまにひ...