1月24日(日) 年が明けてはじめて、介護施設の祖母と面会した。相変わらず施設内に入れてもらえない。当面は無理か。いまにも雪へと変わりそうな雨のなか、窓ガラス越しに電話をかける。短い時間、短いことばを交わしあった。人はすこしずつ名前をなくしてしまいたい生き物なのではないか。帰り際に、なんとなく思う。 施設のなかではおそらく、なにをするにも名前が必要になる。自分の名をいちいち意識せざるを得ない暮らしを想像する。馴染みのない人々に囲まれているのだから仕方がない。家族間であれば名乗ることはない。はじめから身体的な質感で接することができる。わざわざ名によって自己を顕示しなくとも、お互いに「いるね」とすぐわかる。 持ち物をさしいれするとき、かならず名前を書くよう施設の職員さんから注意を受けて、なんともいえない気持ちになった。どこまでも名前がついてまわる。言ってしまえば、それだけよそよそしい場所に祖母は置かれている。 「名前がついてまわるのは、さびしいことだよ」と親に話した。誰もそんなことは考えない、らしい。「持ち物にかならず名前を書く」という規則から、「さびしさ」を読み取る人間は少数派なのだろうか。それもさびしい話だ。 どんなことがあっても、子供の名前のほうにではなく、生きものの名づけようもない魂や皮膚の色つや、心の照りかげりのほうに味方して、味方して、味方しすぎることはないと思っている。 荒川洋治と井坂洋子の共著『理屈』(フレーベル館)より、井坂さんのことば。「味方して、味方して、味方しすぎることはない」。わたしもそう思う。ぜんぜん味方しなかった過去の出来事もぽつぽつ浮かべ反省しつつ……。 祖母はいつも家族にしかわからない態度で、家族にしかわからないことばを話してくれる。新年早々、ちょっとだけお怒りのごようすだった。ずいぶんむかしのことを、思い出したのだと。記憶が原型をとどめないほど滲んで、事実とは異なる内容ばかりだけれど、正すことはしない。聞き取るべくは「心の照りかげり」だけでよいのだと思う。 客観的な同一性よりも、主観的な異質性の味方につく。人はファクトベースで生きているわけではない。これは肝に銘じておく。「さびしい」と言われても、以前のわたしは「主観的すぎて困る」と思っていた。なんなら「知るか」と反感さえ抱く始末だった。いまなら、理に落とそ...