電車移動が常態化すると、電車内は暇つぶしの場所になる。電車内で電車内を眺める人はあまりいない。ほとんどの人は、手にしたものに目を落とす。スマホだったり、本だったり、なにかの資料だったり。思い思いのものを見ている。そうやって、電車内にいないような素振りを見せる。儀礼的無関心、というか。電車内で存在感を発揮する者は、こどもや病者などの周縁的な人々にかぎられる。 目を閉じて、まぶたの裏を凝視する人もたぶん、そういない。これに似ている。人が目を閉じる目的は、まぶたの裏を見るためではない。電車に乗る目的も、ただ電車に乗るためではない。電車内は、まぶたの裏。空白に映じる物思いのとき。 映画館もまた、「まぶたの裏」に似ている。純粋に映画のみと対峙する人はあまりいないのではないか。多くの人はその映画にまつわる、自他の記憶を観たがる。『花束みたいな恋をした』はある種の人々の記憶を刺激する。いわば「暇がつぶせる」映画なのだろう。それはそれとして素晴らしい。 だから逆に、まぶたの裏を凝視したくて映画館へ行く向きには響かないのかもしれない。「映画狂人」のような。あるいは暇つぶしの材料を見出せなかった場合。「ノームコア映画」と前回の記事に書いたように、そこにあるのはきれいな無地の白シャツだった。 「ノームコア」は“normal”と“hardcore”をかけあわせたファッション用語で、めちゃんこシンプルな服装のことを指す。究極のふつう。そんなひとつの「こだわり」。無個性で、矛盾を孕んだ「こだわり」。「ノームコア」という文脈を外せば「こだわり」なんて見出せない「なんでもいいような服装」ともとれる。 「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。 「ふつう」はさながら、目が覚める瞬間にとり逃した夢のよう。「目覚めるといつも私がいて遺憾」という池田澄子の俳句を思い出す。いびつな一個の「私」が存在するかぎり、完璧な「ふつう」には到達できない。完璧な絶望が存在しないようにね。笑...