「考え過ぎ」と人から言われる。自分では考えないほうだと思う。やることなすこと思いつきに過ぎない。夢みたい。考えていたら動けない。なので、ふりかえると恥ずかしくなる。「なぜあんなことをしたのか……」と。わからない。そういう頭なのだから、致し方なしと諦めている。「考える」ということばにふくまれる、企図の感覚が自分のなかにはない。無目的。 いつも散漫にぼんやりしている。恥を忍んで本日も思いつきを散漫に並べたい。前回の 日記995 に書いた中井久夫の「信」と「理解」って、おそらく「全体」と「部分」の相克でもある。「理解」はどこまでも部分的であり「部分」はついに、「全体」に及ばない。こう書いてみると、あたりまえすぎて元ネタがどんどんつまらなくなってゆく……。その代わり、わかりやすい。つまらないものは汎用的。 部分を全体であるかのように押し付けてしまうと、よくない。というお話。「群盲象を評す」の寓話みたいな、全体像の奪い合いが勃発する。あらゆる「理解」はちっぽけな部分に過ぎない。でも「全体を把握したい」という気持ちが逸って、ときに「部分」を暴走させてしまう。 「全体像の奪い合い」は昨今、其処此処で見られる。「我こそが全体を把握する者!」と言いたがる人は多い。それを信じたがる人も。そんな人間はいないのに。戦争の原因の一端も、「全体像の奪い合い」として抽象的には説明が可能か。 「群盲」で思い出したけど、文芸誌『群像』2023年7月号で保坂和志がこんなことを書いていた。主語が述語を規定するのではなく、述語が主語に保証を与える語り口について。 私はハイデガーがシェリングの〈人間的自由の本質〉を読解する本の中で書いたこの主語と述語の関係に大げさに言えば感動したのだ、世界観のある種の転換が起こった、主語と述語を並べたとき、述語が主語の内実を保証する働きになっている、だから、 「おまえは高校生なんだから高校生は高校生らしくしろ。」 という言い方になる、この文では、目の前にいる「おまえ」つまり言われた側にしてみれば「私」であるその私より高校生の方が認識論だか統辞法だか、文の構造によって生まれる意味では真理値と言うのがいいか、つまり理屈を形成する力関係が上になる、目の前にいる個人を差しおいてその個人が何に属するかの定義が優先される、それは転倒だ、 「ジャズとはブルーノートとい...