10月29日(日) ゾンビの仮装をして楽しそうに歩く若い女性たちを見かけた。この時期、仮装した人々を見かけるとなんだかハラハラしてしまう。むなしくならないかと。たとえばゾンビのままトイレで用を足し、手を洗うとき。鏡にうつるその姿を見て、ふとしたむなしさにとらわれることはないだろうか。そんな人間はそもそも仮装しないか。 想像するに、飲み会の帰りに感じるむなしさと似ている。素面にもどるとき。あるいは、コインランドリーのベンチでぼーっとしているときや、喫煙所で缶コーヒー片手に鳩を眺めているときなどにもやってくる。動物園でゾウの目をじっと見ていたときにも似たような感懐を味わった。 なんというか、意味のつなぎ目がほつれるようなとき。むなしい、とはいえ悪いばかりではない。つくろいから解放される。息をつける。自分がなにひとつ持っていないことを、教えてくれる。ほつれたままだとたいへんだけれど、たいていはつくろいなおせる。 たぶんわたしは、意味がほつれやすい。非力でつなぎ目がゆるいため、いつもがんばってつくろわないといけない。ともすれば、仮装者たちの姿からみなぎる共通了解の強度に気圧されてしまう。そこには人と人との緊密な意味の編み目がある。むなしくならないか? なんて、へんな心配は自己投影なのだった。 しかし、やはり、空虚な時間は誰にでもおとずれるものではないか。 ずっと前に暴走族が群れから離れ一人で家に帰るところをみた。静かに信号が青になるのを待っていた — スズキナオ (@chimidoro) June 6, 2016 意味のつなぎ目がほつれるとき。人がふと見せる、そんな束の間の姿に惹かれる。群れから離れ、ひとり静かに信号を待つ暴走族みたいな。無心で、いたいけで、非力な魅力がある。見たことないけど。もうすこし一般化すると、帰り道にひとり放心状態の人。 あるいはスーパーのバックヤードでぼんやり煙草を吸う店員さんとか、お昼休みに公園のベンチでカレーパンを頬張るスーツ姿の男性とか。無防備なひととき。そのあいだだけは、どんな人でもいとしく思える。眠る姿は、その最たるもの。 そういえば、数年前にtwitterで「Keyif」ということばを拾った。 トルコ人と付き合う上で彼らの人間性を知るために最も重要な用語の一つが"Keyif"「ケイフ」である。このケイフという用語...