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10月, 2023の投稿を表示しています

日記1004 仮装、むなしさ、UMAと遭遇

10月29日(日) ゾンビの仮装をして楽しそうに歩く若い女性たちを見かけた。この時期、仮装した人々を見かけるとなんだかハラハラしてしまう。むなしくならないかと。たとえばゾンビのままトイレで用を足し、手を洗うとき。鏡にうつるその姿を見て、ふとしたむなしさにとらわれることはないだろうか。そんな人間はそもそも仮装しないか。 想像するに、飲み会の帰りに感じるむなしさと似ている。素面にもどるとき。あるいは、コインランドリーのベンチでぼーっとしているときや、喫煙所で缶コーヒー片手に鳩を眺めているときなどにもやってくる。動物園でゾウの目をじっと見ていたときにも似たような感懐を味わった。 なんというか、意味のつなぎ目がほつれるようなとき。むなしい、とはいえ悪いばかりではない。つくろいから解放される。息をつける。自分がなにひとつ持っていないことを、教えてくれる。ほつれたままだとたいへんだけれど、たいていはつくろいなおせる。 たぶんわたしは、意味がほつれやすい。非力でつなぎ目がゆるいため、いつもがんばってつくろわないといけない。ともすれば、仮装者たちの姿からみなぎる共通了解の強度に気圧されてしまう。そこには人と人との緊密な意味の編み目がある。むなしくならないか? なんて、へんな心配は自己投影なのだった。 しかし、やはり、空虚な時間は誰にでもおとずれるものではないか。 ずっと前に暴走族が群れから離れ一人で家に帰るところをみた。静かに信号が青になるのを待っていた — スズキナオ (@chimidoro) June 6, 2016 意味のつなぎ目がほつれるとき。人がふと見せる、そんな束の間の姿に惹かれる。群れから離れ、ひとり静かに信号を待つ暴走族みたいな。無心で、いたいけで、非力な魅力がある。見たことないけど。もうすこし一般化すると、帰り道にひとり放心状態の人。 あるいはスーパーのバックヤードでぼんやり煙草を吸う店員さんとか、お昼休みに公園のベンチでカレーパンを頬張るスーツ姿の男性とか。無防備なひととき。そのあいだだけは、どんな人でもいとしく思える。眠る姿は、その最たるもの。 そういえば、数年前にtwitterで「Keyif」ということばを拾った。 トルコ人と付き合う上で彼らの人間性を知るために最も重要な用語の一つが"Keyif"「ケイフ」である。このケイフという用語

日記1003 ファンタジーと幻想、「しぬ」の使い方

  10月14日(土) 藤本和子『リチャード・ブローティガン』と澤田直『フェルナンド・ペソア伝』を並行して読んでいた。両者とも晩年は人を遠ざけるようになり、酒浸りだったという。ともに40代で亡くなっている。変に感化されているだけだろうか、わたしも40代のどこかで気が狂ってしまうような予感がする。そうなるように努力したい。だいたいあと10年ちょっとで発狂して死ぬ。やったね。めでたしめでたし。死なない場合でも、めでたしめでたし。 死といえば、漢 Kitchen 特別編の Elle Teresa とぱーてぃーちゃん信子の回が楽しかった。   冒頭、ネイルのくだりを書き起こす。   信子 ネイルのポイントとかあるの? Elle なんか、“夏”みたいな? “夏終わり”みたいな感じ? 信子 あははっ、よくわかんない Elle  しぬ(笑) 信子 生きて~(笑) Elle 生きる生きる(笑)   楽しすぎる。「しぬ」という平仮名のテロップがいい。「死ぬ」ではない。魂のかけらも込もっていない「しぬ」。なんともハッピーな「しぬ」。「しんじゃう」や「しにそう」といった及び腰ではなく、「しぬ」。この思い切りのよさもすごい。言い切るんだ。わたしも使いたい。「死」ということばのからっぽさをさらりと看破している。 ついつい考えてしまうのは、からっぽだから。からっぽなことばには意味の充填が永遠につきまとう。からっぽな出来事は、いかようにも解することができる。そこには「知」の傲岸さがあらわれやすい。ブローティガンはその点に敏感だったという。    “日本人の青年が入院中の病院の六階から投身自殺をしたという話しを、かれは友人から聞いた(「東京で燃える片腕」)。青年は交通事故で片腕をうしなったことに耐えられなくて、自らの生を絶った。友人は、ほんとにもったいないことをしたと思うのよ。なぜ死を選ばなければならなかったのかしら? 人間は片腕だけでも生きていけるものなのに、と感想をのべた。かれはその青年の場合、片腕だけでは生きていけなかった、と主張する。  片腕では生きていけないと考えた青年にたいして、人間は片腕だけでも生きていけると説教することはやさしい。しかし、それでは生きていけないと主張した青年の心の動きを理解することはできるのか。  わからなければ、われわれは沈黙すべきである。普遍的と見なされているよ

日記1002 心地よさ

秋の夜風があまりに心地よくて窓を開け放したまま眠らずにいたいなと思いながらうとうとしていた。散歩に出れば虫の声を聞きながらどこまでも歩きたくなる。帰りたくない。夜が終わってほしくない。「心地よさ」は健康的だと思う反面、ここにいつまでもとどまりたいあるいはこのままどこかへ消えてしまいたいという病的な感性も賦活する。心地よければよいほど。土曜日の夜、公園の隅っこで楽しそうに語り合う若い女の子ふたりを見かけた。スマホで誰かと話しながら川辺りをぐるぐるほっつき歩く若い男の子もいた。酔っ払って大声で笑う年配のおじさん集団も。 10代のころ、「大人になればこんな思いは消えるはずだ」と予想していた「思い」がことごとくなくならない。いつまでも死ぬのはこわいし、人がこわいし、朝がこわい。学校なんてもう行かなくていいのに、「学校に行きたくない」という思いは消えない。家にいるのに「帰りたい」と思うのにも似ている。どうしたことか。 福祉施設「よりあい」代表の村瀬孝生さんが書いておられた「多世代人格」ということば、これをときおり思い出す。“蓄積された時間のどこを切っても「そのときのわたし」がいて、体の中には「すべての世代のわたし」がイキイキと生きている。年輪のように。僕たちは多世代人格なのかもしれません。” 伊藤亜紗・村瀬孝生『ぼけと利他』(ミシマ社、p.60)より。認知症のお年寄りと接するなかで見出された洞察だけれど、村瀬さんが「僕たちは」と語るようにすべての年代に言えるのだと思う。わたしたちは陰に陽に過去を引き連れながら生きている。どうしようもなく。自分が思うよりも、ずっとあやふやに。 「心地よさ」とは、あやふやさだと思う。湯船につかると体の輪郭があやふやになって心地がいい。信頼のおける人と触れあうときも、動物とじゃれあうときも、体はあやふやに溶ける。どちらがどちらに触れていて、触れられているのか。そんなことは気にならない。夜の暗さ、涼しい気温、どこまでもつづく虫の声、これらの条件もあやふやな身の内を許容してくれる。心地よさとは、あやふやさ。それがゆえにともすれば、おぼれてしまう。 あやふやな時間に、ふと思い出すことがある。といっても、具体的に表現することはできない。それはリチャード・ブローティガンが「糸くずの世界」と書いていたような、形にならないことがらの群れとして浮かんでは消える。