“私が生きた私の人生は、始めもなければ終りもない、一つの物語のように思うことがしばしばあった。私は歴史上の一断片であり、前後の文脈を失った、一つの抜萃であるといった感じをもっていた。” 『ユング自伝2 思い出・夢・思想』 11月22日(水) 帰り道、街角で「ラッキースケベくださいよ」と大学生くらいの若い男性が楽しそうに話していた。となりの小太りのおじさんがそれを受けてなにか返す。始めもなければ終りもない今日の断片。前後の文脈を失ったひとつの抜粋。通り過ぎてそれっきり、なんの話だかまったくわからない。まるでユングの人生である。というか「ラッキー」は偶然だからラッキーなのであり、「ください」と請うものではないと思う。ラッキースケベがほしいのなら、みずからのアンテナ感度を高めるほかない。もうすこし偶然をたいせつにしよう。わたしがとなりのおじさんだったら、そう諭すだろう。 また、宮沢賢治は友人の藤原嘉藤治にこう語ったという。 “―おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。 ―花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類に入らないよ。君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ。さあ行こう―。” 森荘已池『宮沢賢治の肖像』 なんて感度だ。賢治にとっては、ラッキースケベが日常茶飯事であったと言っても過言ではない。いや、そうなってくるとふたたび「ラッキー」が何かわからなくなる。常態化したラッキーはラッキーと呼べるのだろうか。ラッキーとは不意の僥倖、連続性の裂け目だ。つまり前後の文脈を失ったひとつの抜粋、ユングの人生のようなものである。もしかすると街角ですれ違った彼は、ユングを読みたがっていたのかもしれない。ちょうど鞄に入っていたので、貸してあげればよかった。そうすれば「こいつはラッキー」と思ってもらえたにちがいない。 そういえば今朝、改札口でつかまったわたしはちょうど連続性の裂け目だった。人々の流れを食い止める。通り過ぎゆくはずのものが通り過ぎない。エラー音とともに身体があらわになる。群れから一瞬にしてこぼれ落ちる。あられもなく。スーツ姿の女性が邪魔そうにわたしを避...