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日記1023


 

6月某日

日記1020で「ちょっと飛んだこと」として、記号接地問題は感動の問題だと書いた。知人から「それはべつに飛んでない」と指摘してもらった。言語学者の今井むつみ氏は記号接地と人間の感情を紐づけて論じているらしい。いろいろ読まないといけないなあと思う。

忘れていたが「感情は接地だ」とは、2020年9月の記事にもすでに書いていた。我ながら進歩がない。ひとりで考えるだけ考えておきながら、さほど情報収集などしていないせいだろう。だいたい直観でそれっぽいことを書いて満足している。不勉強。こんなこと話す相手もいないし。すぐに忘れて、おなじようなこと何回も書いちゃう。 

 

7月7日

都知事選の日。主に3つの選択肢で迷う。安野貴博 or アキノリ将軍未満/外山恒一 or 棄権。今回は、安野氏に1票を入れた。とはいえ、自分にとってこの3つの選択肢はひとしく価値をもつ。スマートな理性(安野氏)と、反スマートな理性(アキノリ氏/外山氏)。加えて、なんにもかかわりたくない、たのむから静かにしてくれという感情(棄権)の3本立て。無駄のなさ(安野)と無駄の欲しさ(アキノリ/外山)と、どうでもよさ(棄権)。

「ひとしく価値をもつ」は嘘かもしれない。もっとも強いのは、「なんにもかかわりたくない」の気持ち。わたしは貝になりたい。じっと、深い海の底で永遠に押し黙って、静かに打ち沈んで、時がきたらひっそりと消えてしまいたい。

などと切に願いつつも、暑い陸上を歩いて投票所まで出向き、顔を合わせた近所のおっちゃんと挨拶を交わし、投票立会人のおっちゃんたちともやわらかく挨拶し、「安野貴博」とキッチリ漢字で記して有効票を投じる、結局は真面目な小市民なのだった。自分ひとりの価値観と、共同体を考慮したすえの価値観はおのずとちがってくる。ひとりなら、断然「なんにもかかわりたくない」。

上記3つの選択肢は、こう言い換えることもできる。ちゃんとしてそうな社会性(安野)、ちゃんとしてそうな裏返しの社会性(アキノリ/外山)、社会もくそもない孤独(棄権)。ぜんぶだいじ。というバランス感覚で生活しています。

誰のなかにも、異なる価値観が並行して走っているものだと思う。しかし、「迷いはあるけど不承不承この人かな」みたいな選挙の話はそんなに見かけない気がする。多くの人は大なり小なり葛藤しながら「ほんとだるいなー、しょうがないなー」って感じで投票したり棄権したりしてんじゃないか。そう信じたい。ひとりの人間のなかに、矛盾する価値観がたくさんあってとうぜんだろう。そのあいだに生起するためらいをききたいと思う。うろうろした思いを。ためいきのようなことばを。

選挙期間中、街頭で若い金髪の男性から「お兄さんお兄さん!」と馴れ馴れしく声をかけられた。「蓮舫よろしく」だそう。ナンパされたかと思った。ある日のポスター掲示板の前では、若い女性が「石丸に入れる!」と力強く宣言していた。その近くにいた、おそらく蓮舫陣営のおじさん運動員ふたりが「共産党とは手を組みたくないね~」と苦虫を噛み潰したような表情でしゃべっていた。べつの日の掲示板前では「くだらねえ奴らばっかりだ」と怒りをあらわにするスーツ姿のおじさんもいた。深夜、ストロング缶片手に。

自分がリアルに接している人は、軒並み小池百合子に投票したらしい。SNSから入ってくる情報は、蓮舫・安野・アキノリ/外山に関するものが大勢を占めていた。選挙は関係先の位置づけを確認する機会になる。わたしの場合、身を置いている場所と心を置いている場所のギャップがおおきい。慢性的な「居心地の悪さ」はそこから生じる。しかし居心地が悪くないと頭が働かないような気もするから、それはそれでよい。

すべての選択肢をたいせつにしたい。そのうえで「自分はこれです」と言えたなら理想的。人が良すぎるだろうか。一見した「人の良さ」の根底には「どうでもよさ」があるのだろう。超然と浮世離れしたところがあるから、ある程度は等距離を保てるのだと思う。まずは神を信じている。


7月12日

似た人がいる。世代も国籍もなにもかもちがうのに、なんだか似ていると思える人がまれにいる。ぜんぜんべつべつに存在していても、なんか似ている。そう感じてしまう。たぶん、身に受けた制約のかたちが似ているのだと思う。あるいは、自分で自分に課した制約か。制約とは、寂しさのこと。いや、いつの時代も人間なんておおよそ似通ったものなのかもしれない。ほんのすこし、決定的にちがうだけで。


7月14日

日曜日。曇り空。川辺でこどもたちが遊んでいた。夏らしい風景。全裸の男の子もいる。そのなかに、ひとりだけおじさんが混じっていた。お笑いコンビ、空気階段の鈴木もぐらに似たおじさん。半裸で、こどもよりこどもらしく汚れて、笑っていた。目を疑うほど素朴な夏の休日。彼の姿が忘れられない。

たまゆらに昨日のゆふべ見しものを今日のあしたは恋ふべきものか

万葉集の歌を思い出す。詠み人しらず。数日後には忘れると思うけれど、あの瞬間の彼は輝いていた。写真に収めたいと思った。歌を思い出すことも、あるいは詠むことも、写真にして切り取る行為に似ている。

あたりまえだけれど、自分の姿を離れたところから自分で見ることはできない。撮影でもしないかぎり。第三者の目を通してしかわからない姿がある。基本的に自分の姿というのは、自分ひとりでは不可視なものだと思う。鏡の上だけでは一面的すぎる。

なにが言いたいかというと、あのおじさんは無自覚に輝いていた。それはおそらく、まったくの他人であるわたしの目を通してしかわからない輝きだった。

ビートたけしが「夢」について語ったエピソードを想起する。tumblrで拾ったもの。若いころ、稼いだお金で憧れのポルシェを買った話。

 

“車乗ったらさ、これがポルシェだと。乗ってるときには外側がわかんないの。これはポルシェに確かに俺が乗ってるけど、俺が乗ってる姿が見えねぇじゃねぇかっつって、それで菅沼っていう俺の友達呼んで、お前運転しろっつって、俺はタクシー雇ってずーっと後ろから追っかけて、それで高速道路のって、菅沼にもっとスピードだせよこの野郎って言って、タクシーの運転手にももっと追いつけって言って、追いつけないですよって言うから、この車カッコいいだろ!って言って、カッコいいって言ったって誰の車だっていうから俺の車だって。あんた自分の車は自分で運転しなさいって。何を言ってるんだ見なきゃしょうがないじゃない……。

それで気がついて あぁ結局そういうことかぁって。夢って、寝て、あくる日、目の前に枕元にでも、車でもオネーチャンでも、ね、いたら、ドリームカムズトゥルーだけど。結局それまで10年も15年も努力してやっとその車買ったって夢ってないなぁって。それは夢じゃないときにしか現れないんだよ。”


夢は叶うと、見れなくなる。「見る」という行為は距離を要するものだから。距離がなくなれば見れない。びっくりするほどあたりまえの話でも、重要な事実だと思う。どんなに輝いている自分がそこにいたとしても、ひとりじゃわからない。誰かに見てもらって、その輝きを表現してもらわないかぎり。

それにしても、たけしは極端かもしれない。多くの人は、実際に見ることはせずとも想像的ないし象徴的に補完できるのではないか。ポルシェを運転しながらでも、「ポルシェに乗ったイケてる自分が人々に見られている」と自惚れることは可能だ。たけしは第三者の目を信じていない。タクシーまで雇って、走る自分のポルシェを自分の目で見ないと気が済まない。人々の視線を内面化していないのだ。

こうした「見守る第三者の欠如」が映画監督北野武の殺伐とした作風にもつながっているのかもしれない。「みんな」を信じていない、というか。「なにかに見守られている」という感覚の欠如は、身も蓋も神も仏もない無慈悲さに通じる。

赤の他人の目は、神の目にも似ている。関係のない彼岸の目。そこからしか覗けない人の姿がある。街で見かける人々を勝手に撮りたくなる。誰の日常であれ、関係ない他人の目から見ればとてつもない時間。どう足掻いても、そこにいることができない、とてつもなさがある。ありえない。そう感じるのは、わたしが半ば死んでいるせいかもしれない。なんだかみなさん、信じられないほど生きています。

 

7月15日

連休最終日。風邪をひいているため、ほとんど家で過ごした。ある人から夏風邪は長引くから気をつけてね、と言われた。ほんとうに長引いている。半月くらい、ぜんぜん治らない。引きこもることを自分に許してとにかく寝た。起きて夜中、散歩する。花が落ち、路上が濡れている。雨は降っていない。大きな異物を飼いならすように寝起きの体を動かす。歩きまわる。空気が澄んでいた。夜の底をひとりでうろつくと、すっきりする。異物がだんだんと透明になる。死を支払い終えたみたいに。

 

 

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