4月のはじめ、長いこと使っていたデジタル一眼のカメラが壊れた。購入店に相談したところ、修理できないと言われる。ああそうですか。というわけで、5月に入って中古のカメラを買った。今月は出費が多い。 壊れたカメラは、完全に壊れたと思っていた。しかし、いじっていると稀に復活することが判明。なんにも撮れない状態から、急に撮れるようになる。数回撮ると、またしばらく沈黙する。どういうことだ。壊れたなら壊れたで、もういっそ派手に爆発してもらいたい。 社会心理学者のポーリン・ボスが提唱した「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を思い出す。自然災害などで遺体が発見されない喪失体験や、認知症などの脳疾患による喪失体験を指してそう呼ぶ。前者は身体的には不在であるが、心理的には存在している状態(行方の喪失)。後者は心理的には不在であるが、身体的には存在している状態(意識の喪失)。 「あいまいな喪失」とは、心と体がちぐはぐなまま生殺し状態の別れ方といえる。 わたしのカメラは物質として存在するけれど意識があったりなかったりする。何年もせっせと持ち歩いて体に馴染んだモノゆえ、それなりの喪失感がある。とはいえ、もどかしい。なぜ、たまに復活するのか。希望をちらつかせないでくれ。まあいいか、と思いなしても夢に見る。壊れたカメラが何事もなかったかのように復活する夢。朝起きて、カメラを起動してみるとやはり壊れている。 でも10分ほどいじっていると復活するときがある(しないときもある)。復活の法則を知りたくて、無駄にシャッターを長押ししたり、連打したりなんだかんだする。壊れかけた機械の明滅はまったくのランダムであり、法則などないのだろう。わかっている。わかっていても、なんらかのルールを見出そうとしてしまう。一定の秩序から外れたものを、秩序のなかへ呼び戻そうと。「上上下下左右左右BA」みたいな隠しコマンドがあるのではないかと。4月はそんな日々がつづいた。 中古のカメラを新調して、このごろは徐々にしょうがないと思えるようになってきた。 ついでに自分の死に方についても、ちらと考える。希望がかなうなら、できるかぎりわかりやすく死にたい。漫☆画太郎が描くような、「ドカーン」「ウギャーーーッ!!!」といった死に様が理想だ。誰がどう見ても完膚なきまでに死んだとわかるよう気合を入れて死にたい。「肉体
“「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。読者はこの卓抜な表現に一瞬虚を突かれ、やがて笑いがこみあげてくるのではないか。そして、私たちは「生きる」ということを偏って捉えすぎているのではないか、とも思い当たるのである。「生きること」とは、働くことかもしれないし、考えることかもしれないし、愛することなのかもしれない。辛いことかもしれないし、食べて寝ることに過ぎないのかもしれない。「生きること、それは……」というアフォリズムを思わせる言い回しは、このあとで人生についての深い真実が告げられるかのような期待を抱かせるが、実際に与えられるのは、あまりにも即物的な、身もふたもない人生の定義なのである。この落差がちょっとしたショックを引き起こし、やがてそれが笑いに変わるのだろう。しかし、よくよく考えてみると、この定義には人生の本質を突く点が含まれていることも分かるのだ。つまり、私たちの日々の活動は「空間」に深く規定されているという事実であり、そのことは「アパルトマン」の章のタイムテーブルが示しているとおりである。食事をするにせよ、入浴するにせよ、何かをしようと思ったらおのずと特定の場所に体を運んでいるのであるから、その移動の連なりこそが〈人生〉である、という定義には、それなりの真実があるわけである。それとともに、「生きること」に行き詰まり、思い悩んでいる人には、ごちゃごちゃ考えなくても、とりあえず壁や家具にぶつからないように移動できていればそれでいいんだ、立派に生きているんだ、というような励ましのようにも響くのではあるまいか。” ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間 [増補新版]』(水声社、pp.242-243)、翻訳者の塩塚秀一郎氏による「増補版に寄せて」より。 「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」もそうだけれど、わたしはきわめて表層的な即物性に惹かれる傾向がある。人々の虚を突いて、やがて「そりゃそうだ」と、あきらめたように笑みがこぼれる、そんな表現。身もふたもなさ。深さ、よりも浅さ。そこで息づく明るさ。 「見たまんま」の、ぽかーんとした物言い。ペレックが定義する「生きること」は、とてもぽかーんとしており、まさにそこには広々と