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投稿

日記1019

  4月のはじめ、長いこと使っていたデジタル一眼のカメラが壊れた。購入店に相談したところ、修理できないと言われる。ああそうですか。というわけで、5月に入って中古のカメラを買った。今月は出費が多い。 壊れたカメラは、完全に壊れたと思っていた。しかし、いじっていると稀に復活することが判明。なんにも撮れない状態から、急に撮れるようになる。数回撮ると、またしばらく沈黙する。どういうことだ。壊れたなら壊れたで、もういっそ派手に爆発してもらいたい。 社会心理学者のポーリン・ボスが提唱した「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を思い出す。自然災害などで遺体が発見されない喪失体験や、認知症などの脳疾患による喪失体験を指してそう呼ぶ。前者は身体的には不在であるが、心理的には存在している状態(行方の喪失)。後者は心理的には不在であるが、身体的には存在している状態(意識の喪失)。 「あいまいな喪失」とは、心と体がちぐはぐなまま生殺し状態の別れ方といえる。 わたしのカメラは物質として存在するけれど意識があったりなかったりする。何年もせっせと持ち歩いて体に馴染んだモノゆえ、それなりの喪失感がある。とはいえ、もどかしい。なぜ、たまに復活するのか。希望をちらつかせないでくれ。まあいいか、と思いなしても夢に見る。壊れたカメラが何事もなかったかのように復活する夢。朝起きて、カメラを起動してみるとやはり壊れている。 でも10分ほどいじっていると復活するときがある(しないときもある)。復活の法則を知りたくて、無駄にシャッターを長押ししたり、連打したりなんだかんだする。壊れかけた機械の明滅はまったくのランダムであり、法則などないのだろう。わかっている。わかっていても、なんらかのルールを見出そうとしてしまう。一定の秩序から外れたものを、秩序のなかへ呼び戻そうと。「上上下下左右左右BA」みたいな隠しコマンドがあるのではないかと。4月はそんな日々がつづいた。 中古のカメラを新調して、このごろは徐々にしょうがないと思えるようになってきた。 ついでに自分の死に方についても、ちらと考える。希望がかなうなら、できるかぎりわかりやすく死にたい。漫☆画太郎が描くような、「ドカーン」「ウギャーーーッ!!!」といった死に様が理想だ。誰がどう見ても完膚なきまでに死んだとわかるよう気合を入れて死にたい。「肉体
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日記1018 さよならの仕方

  “「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。読者はこの卓抜な表現に一瞬虚を突かれ、やがて笑いがこみあげてくるのではないか。そして、私たちは「生きる」ということを偏って捉えすぎているのではないか、とも思い当たるのである。「生きること」とは、働くことかもしれないし、考えることかもしれないし、愛することなのかもしれない。辛いことかもしれないし、食べて寝ることに過ぎないのかもしれない。「生きること、それは……」というアフォリズムを思わせる言い回しは、このあとで人生についての深い真実が告げられるかのような期待を抱かせるが、実際に与えられるのは、あまりにも即物的な、身もふたもない人生の定義なのである。この落差がちょっとしたショックを引き起こし、やがてそれが笑いに変わるのだろう。しかし、よくよく考えてみると、この定義には人生の本質を突く点が含まれていることも分かるのだ。つまり、私たちの日々の活動は「空間」に深く規定されているという事実であり、そのことは「アパルトマン」の章のタイムテーブルが示しているとおりである。食事をするにせよ、入浴するにせよ、何かをしようと思ったらおのずと特定の場所に体を運んでいるのであるから、その移動の連なりこそが〈人生〉である、という定義には、それなりの真実があるわけである。それとともに、「生きること」に行き詰まり、思い悩んでいる人には、ごちゃごちゃ考えなくても、とりあえず壁や家具にぶつからないように移動できていればそれでいいんだ、立派に生きているんだ、というような励ましのようにも響くのではあるまいか。”   ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間 [増補新版]』(水声社、pp.242-243)、翻訳者の塩塚秀一郎氏による「増補版に寄せて」より。 「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」もそうだけれど、わたしはきわめて表層的な即物性に惹かれる傾向がある。人々の虚を突いて、やがて「そりゃそうだ」と、あきらめたように笑みがこぼれる、そんな表現。身もふたもなさ。深さ、よりも浅さ。そこで息づく明るさ。 「見たまんま」の、ぽかーんとした物言い。ペレックが定義する「生きること」は、とてもぽかーんとしており、まさにそこには広々と

日記1017

交差点。桜まつりの看板を尻目に、横断歩道を渡るこどもたち。5、6人みんな手をあげていた。たのしそう。「みんなで手をあげて横断歩道を渡る」という、ちょっとしたイベント。横断歩道にさしかかるたび、はしゃぎながら手をあげて駆け出す。バンザイする男の子もいた。すこし離れた後ろからぼんやり眺める。話し声が断片的にきこえる。「来週の月曜日から学校だよ」「月曜日ってなん曜日?」「月曜日だよ」。 3月さいごの週末は各地で桜まつりが開催されていた。うちの近所では、まだほとんど咲いていない。引き続き来週も開催するらしい。 2月のある日、とても寒い思いをした。手足の感覚がなくなるほど。その日の記憶を引きずってしまい、暖かくなっても用心深く厚着している。眠るときも。おかげで寝苦しくなる。臨機応変な加減はむずかしい。記憶がそれを阻害する。過去と現在はちがう。ことばのうえでは、わかっているつもり。でもいかんともしがたく、割り切れない過去が現在に食い込んでくる。たいていは無意識に。たくさん、たくさん。 小鳥が雪のくぼみで遊ぶ。そのちいさな足あと。もう溶けてなくなった。冬の記憶。凍った路面の歩き方も思い出せない。桜は「まだほとんど咲いていない」とはいえ、あっという間に満開になるのだろう。いまに暖かさにも慣れる。「寒い思い」も暑気にくるまれ、ふかふかな野良猫の毛も生え変わっていく。 ちゃんと忘れる。そしてまた知らない感情に触れる。でもその未知は、単に忘れたから未知なのかもしれない。じつは繰り返し。それでもいいか。「何度だって忘れよう/そしてまた新しく出逢えれば素晴らしい」って歌があったっけ。すべてが初めてのようであり、再会のようでもある。書かれた記憶を手中で見つめていたはずが、次の瞬間には記憶に眼差されている。わたしたちは循環する。 春に漂う花の香りは、訪ねた家の空気のようによそよそしい。きょうは4月1日。ちいさな男の子がちいさな公園の一角で「Bling-Bang-Bang-Born」を歌っていた。Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」を歌うこどもに、この1週間で2回遭遇。 雨がちな天気のなか歩く。明るい曇り空。資源ゴミとして紐で括られた受験参考書の山が濡れている。山をよく見ると、受験参考書のほかに保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』の単行本、城一夫『常識とし

日記1016

為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。 以下の箇所が私的に示唆深かった。    “例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。  この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。  それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。” (pp.61-62)   自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業に入りづらい。なんとなく信じながらも、まあまあ適当にやっつけはじめる。いい塩梅に信じる心をもって。 貨幣がいちばんわかりやすいか。「こんなものただの紙や金属だ」という姿勢では生きていけない。かといって、執心しすぎて使う余裕を失っても孤独になる。たいてい、付かず離れずの距離を保って生活している。 こうした、いわば「おままごとのジレンマ」は、あらゆる場面で生じうる。わたしは、さまざまな切り口からずーっと、この「信じ過ぎても疑い過ぎてもやってけまへんわな」という図式にこだわりつづけている気がする。ひいては「ふつう」ってなんだろうね、みたいな問いにもつながる(たぶん)。「リアリティ」ってなんだろうね、みたい

日記1015

前回( 日記1014 )のつづき、みたいなものを書こうと思う。かんたんに。ちょこちょこっと、メモ程度に。適当に。(そう言い聞かせないとはじめられない)。 2月のはじめ、以下の記事を読んだ。 【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル きょうは3月7日(木)。時間が経ってしまったけれど、この1ヶ月なんとなく頭の片隅に渦巻いていたもの。  “ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。    しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。価値を含むことばの使い方もそうである。”   このあたり、前回の記事で引用した長田弘の「戦争というホンモノ/平和というニセモノ」と関連する。ひいては、そこから取り出した「一回性/複数性」の二項とも。「ひとり」を前提としたことばの体系と、「みんな」を前提としたことばの体系とのあいだでは、きっとコミュニケーションが成り立ちづらい。そんなことも思う。 社会的には平時でも、人は孤独を宿している。それぞれに個人的な非常時も訪れるだろう。いつ災害に遭うとも、事故に遭うとも知れない。それまでの価値観を変更せざるをえなくなるときがくる。喪失を経て、なお生きている。そこから始まることばがある。 しかし同時に、いかなるときも周囲は価値や意味であふれている。人は孤独を宿しながらも、ひとりではありえない。「体にいくつかの穴が開いているように、孤独にも他者を迎える穴が開いている」と数日前、友人へのメールに書いた(わたしの私信はブログと大差ない)。忘れがちというか覚えていないけれど、わたしたちはみな、母胎から分化してにゅるにゅるこの世に登場した激ヤバな過去をもつ。まるでそんな過去はなかったかのような素振りでサバサバ生きているが、人間は元来にゅるにゅるし

日記1014

2024年1月1日(月) 部屋の整理をしていたら、11月の文学フリマで吉川浩満さんから「金のインゴットです」と手渡されたオマケが出てきた。謎の購入特典。適当に「おお、うれしい!」などとリアクションして受け取ったものの、これがなにを意味するのかわからずにいた。小さな金のインゴット。まさか本物の金ではあるまいし……。まあいいやと放り出して、そのうちに忘れていた。 まじまじ眺めると、「FINE GOLD」の文字。その下に「YAOKIN」とも。やおきん? 聞いたことがあるような。調べると、うまい棒で有名なお菓子のメーカーだった。ハッとする。お菓子にまったく興味がなく無知であるせいで年明けまで温存してしまった。このインゴット、剥けるぞ! 中身はなんとチョコレートだったのだ! 知っている人からすれば「アホか」と思われそうだが、「こんなチョコあるんだ~」と感激してしまう。久しぶりにお菓子を食べた。インゴットの謎が解明され、ささやかながらおめでたい1年の始まり、ということにしておこう。「アホ」という意味でもおめでたい。 それにしても「お菓子にまったく興味がない」と書いてみると、ずいぶん冷たい感じがする。ともだちがいなさそうな感じもする。社交を拒む感じ。じっさいそうかもしれない。もうすこしお菓子に興味をもったほうが社会的に成功しそうである。心がけよう。笑顔でお菓子をふりまくあたたかみをもちたい。 くしゃくしゃになったインゴット風の包みを眺めながら、お菓子のない日々を過ごしてきたなあと、ぼんやり思う。お菓子のある日々を過ごす人からすれば、お菓子のない日々は索漠たるものに思われるだろう。でも、その索漠に慣れきってしまった。わたしはお菓子のある日々の自分がもはや想像できない。自分のような人間がそっちへ行ってもよいものだろうか。お菓子ひとつの内に深い溝を感じる。 ここ数年、路上に転がるお菓子のゴミは目に入るが、ゴミ以前の現役お菓子には目もくれなかった。ふつうは逆だ。ゴミばかり構っていて、おかしいな(お菓子だけに!)。すこしくらい市販のお菓子にも目を向けようと思う。ふところに飴でも常備しておく。     元日にここまで書いて更新せず放置していた。そろそろ1月が終わりそう。本日は1月29日(月)。気力があまりない月だった。できるだけ穏やかに暮らしていたいと願う。 何週間か前、『フィリップ・K・デ

日記1013

今日は大晦日。 ふりかえると毎年、知らない誰かとお知り合いになる。誰かしら。来年も、いまは知らない誰かと知り合うのかもしれない。毎年、お別れもある。暑い盛りの8月、「いまどこですか?」というLINEが頻繁にとどいた。約束した記憶がない。知り合いのおじいさんからだった。たぶん、ボケている。何日かつづいたので、「もうすぐ着きます」と返信をしておじいさんの家まで行った。約束した覚えはないけれど、彼はわたしの知らないところでわたしと約束したのだ。スーパーで買った寿司をお土産に持参して、いっしょに食べた。それが最後になった。先月、亡くなったらしい。8月の約束した覚えのない約束については、いまだに整理がつかない。ときどき夢に出る。何件も届く「いまどこですか?」。書く気になれなかったけれど、なんとなく今年のうちに記録しておこうと思った。 わたしの預かり知らないわたしがいる。たしかにいる。そういうことをぼんやり思う。生き霊みたいな。「記憶ちがいだ」「妄想だ」と切断してしまえばそれまでだけれど、それでは納得がいかないから、もうすこしべつのことばでもやもやしてみたい。抱えておく。 忘れることと、思い出すことは不可分なのだろう。忘れるから思い出す。過去の約束を何度も思い出せる。そうして何度でも繰り返し同じ夢を見る。最後に夢見てくれて、うれしく思う。 “人生は反復であり、反復こそ人生の美しさであることを理解しない者は、みずから首をつったもおなじで、くたばるだけの値打ちしかないのである。” キルケゴールの『反復』。そんな罵倒せんでも……と思う。でも、そうかもしれない。年末年始には決まって「繰り返し」を思う。わたしたちはぐるぐるしている。おそろしいほどぐるぐるしている。できるだけ良い感じにぐるぐるしていたいものです。よいお年をお迎えください。 いま、時刻は午後6時。たぶん、カウントダウンなんかせずに粛々と寝る。さっき散歩していたら、こどもたちが登り坂を勢いよく走り抜けていった。ふもとにいる母親らしき女性がそれを見守りながら、「ナイスラン!」と声を上げていた。