宗教性は日常言語に浸潤している。南直哉と鎌田東二の『死と生 恐山至高対談』(東京堂出版)を読みながら、そんなことを思った。禅僧の南さんは、死ぬ間際の人と対話をすると、どうも似たような話になってしまうのだとか。そこから彼は「自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉」を語る。 (…)そのときに不思議といつも言うことになるのは、「わびたいと思うことがあったら、今わびといた方がいい」という言葉です。それで、「もし、わびたい人がこの世にいないんだったら、私に言いなよ」と言ったことがあるんですよ。今までそんなことが三、四回ありました。そんなことをなぜ自分が言うのかと考えてきたのですが、いま鎌田先生に言われてわかりました。私にとっては、ふだん使う言葉で最も自分の宗教性というか、自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉は「ごめんなさい」だと思いますね。先生にとってそれは「ありがとう」なんですね。p.272 あくまで「私にとって」「先生にとって」と、個人的な感覚として語っておられるけれど、そうでもないのではないか。何気ない日常のことばに宗教性が宿っているのだと、乱暴な臆見として拡大解釈したくなる。日本人の宗教観は、対象化して「それ」と名指せないほど日本語そのものに浸潤している。 思いだすのは、祖母のことだ。乳がんの摘出手術を受けた直後、混濁する意識のなか連呼していたことばが「ありがとう」だった。なにを話しかけても「ありがとう」と言う。話しかけなくても言う。感謝の意だけではなく、すがるような響きもあった。あのときの「ありがとう」はあきらかな宗教性を帯びていた。 あるかないかギリギリの、意識の下限において発される「ありがとう」。「寝言は神への祈りだ」と、たしかウィトゲンシュタインがどっかに書いていたと思う。祖母の「ありがとう」はそう、寝言のようにほとんどリズムだけの、かすかな吐息だった。意味のないリズムの運動、そのかたちとしての「ありがとう」。念仏にも似た。南さんのお話は、そんな個人的な体験とリンクした。 祖母本人は「無宗教」と話すけれど、こちらから見ればふだんから「ありがとう」に殉じる宗教観をもつ生活者だった。神主の鎌田さんとおなじように。仏教者の南さんならばそれが「ごめんなさい」となる。そんなら、わたしが宗教性を感じることばはなんだろう? と自分に問うてみ...