ひさしぶりに、くら寿司へ行った。あのシステマチックな回転寿司チェーン。以前よりシステム化がすすんでいたような。むろん食事目的なんだけど、それよりなにより個人的には「体感なんだ!」と思った。アトラクション的。こどもがはしゃぐのもうなずける。なんか新鮮な発見をした気分。 これはしかし、とくに目新しい視点ではないのだろう。「くら寿司 アトラクション」で検索してみると、おなじことを書いている人がちらほら見つかった。そうそう。乱暴に言い切ってしまえば、食事がメインの場所ではない。 遊園地のアトラクションとほとんどいっしょ。ラインのうえをガチャガチャ動いて、ワーキャー言って、はいお会計。完全にシステムの一部となる。寿司もさることながら、人間のほうも露骨にまわされている。このシステムに乗れない人間は、ぜんぜん楽しめないのだと思う。これも遊園地と似ている。 ポジティブに表現するなら「アトラクション」。いっぽうで、もうひとつ連想したのは家畜の管理システムだった。まるで養鶏場のニワトリ気分。しょうじき、こっちの印象のほうが強く、わたしはどちらかといえば「家畜ごっこ」と思って楽しんだ。くら寿司へ行けば、エサをついばむ鳥になれる。ブタでもウシでもなんでもいい。人間に疲れたら、くら寿司へ行こう。 ネガティブで皮肉っぽい言い草だけれど、システムにすっぽりハマって匿名的な存在になると気持ちがやすらぐような面は確実にある。ことしは余裕がなくて「刑務所に入ったほうがラクなんじゃないか」と思っていた時期がすくなからずあった。番号で呼ばれ、なにもかも管理されて、ある意味では無責任になれる……。しかしそんなものは夢想に過ぎない。刑務所はたぶん、もっとつらい。 ただ自由よりもずっと、不自由がほしかった。さっさと耄碌して、馬鹿になってしまいたい。これが正確か。刑務所には入りたくない。それにしても、なんて希望のない人間なのだろう。いや、うーん、そうだな……。 「不自由がほしかった」は言い換えると、「修行が足りなかった」ってことなのだ。不自由を得る自由の行使が修行。そう解釈すれば希望の光がちらつく。わたしにとっての「修行」は、正しいおこないのことではない。自分の愚かしさを知悉することだ。 自分はいかなる馬鹿であるか、 自分はいかなる馬鹿になるか、 いかなる馬鹿として自分を見るかが、 多様な人生観のわか...