哲学者・東浩紀の著書『平和と愚かさ』にある、自然科学と人文学のちがいに関する話から連想したことを雑駁に書きたい。両者は異なる役割を分担しているのだという。東氏はそれをリゾート運営におけるクレーム対応の比喩で簡明に書いている。
“ぼくたちはリゾートを運営している。そこで客がサービスに不満を訴えたとしよう。たとえば、プールの水が冷たいとかスタッフがいくら呼んでも来ないとか、クレームをつけてきたとする。
そのとき自然科学者や社会科学者が行うのは、客のクレームが正しいかどうか、水温を計測したり監視カメラを確認したりして客観的に検証する作業である。たしかにそれは絶対に必要な作業ではある。それで問題が解決することもある。けれども残念ながら、たいていの場合はそうはいかない。たとえ運営にいっさい非がなかったとしても、いきなり水温やカメラの画像を示したら、客の態度はますます硬化するだけである。
そこで人文学者の出番となる。人文学は客観的証拠(エビデンス)を突きつけたりしない。少なくともそれに頼らない。かわりに、冷たいとはどういうことか、スタッフが来ないとはどういうことか、まずは客の期待=幻想に耳を傾けたうえで、その幻想のほうを「訂正」しようと試みる。訂正がうまくいけば、クレームも消滅する。”
『平和と愚かさ』(ゲンロン、2025、pp.471-472)
自然科学や社会科学はおもに世界の客観的な現実を扱い、人文学はおもに人間の抱く幻想を扱うのだと。引用したのは入り組んだ文脈の一部なので、ここだけ切り抜くと捉え損なうものがあることには留意しつつ、支脈を広げるようになんとなく思い出したものを連ねようと思う。
わたしが『平和と愚かさ』を読んでいたのは今年の三月。そのとき並行して読んでいた本があった。
精神科医・江口重幸の論文集『病いは物語である 文化精神医学という問い』と『病いのリアリティ 臨床民族誌の系譜』の二冊。正確には読んだり読まなかったりして、長いあいだ傍らに積んでいた二冊。
江口氏の論集では、上記の「自然科学と人文学のちがい」みたいな話がさまざまに変奏され、何度も繰り返されている。それは精神医学という分野がこのふたつの思考様式の境界域に位置するからだろう。基本的なところでは、医療人類学者のアーサー・クラインマンによる「疾患」と「病い」の二分類が挙げられる。かんたんにエッセンスを取り出している部分を、江口氏の本から引用する。
“医療人類学の教える事柄はさまざまだが、私が学んだのはシンプルな二点にしぼられる。ひとつ目は、「病気」を、教科書に書かれている鑑別診断的「疾患」と、患者や家族の主観的体験である「病い」とに分け、後者を引き出すように、というものである。後者の、「病い」として語られる個別の問題に耳を傾け、応えるようにしなさいというものである。二番目は、同根のものだが、治療者側も患者・家族も、その病いや窮状を説明する「説明モデル」を同じように持っているという視点である。治療とはこのモデル間の折衝過程で、両方の説明モデル間の距離が縮まれば治療関係は好転している(拡がればその逆)と考えてよいというものである。”
『病いは物語である』(金剛出版、2019、pp.332-333)
東氏の二分類に紐づけるなら、「疾患」はエビデンスにもとづく客観的な枠組みで病気を理解することであり、「病い」はお客さん(≒患者さん)のことばから問いを立て説明を汲み上げていくこと。それぞれの説明モデル間の折衝過程は、「訂正」の試みに対応すると思う。
あるいはべつの頁で江口氏は、臨床の現場において「神経科学や薬物療法をはじめとする医学的知識の習得が必要なのは言うまでもない」としながら、
“しかしたとえばうつ病の人で、抗うつ薬に反応する人が五〇%いる一方で、プラセボに反応する人が四〇%いるという部分に注目する——いわば人文科学系の——思考法も活かせないかと思うのである。”
『病いは物語である』(p.344)
と記す。偽薬でもなんか効いちゃうプラセボへの着目に関して、「人文科学系の思考法」と書き添えている。薬の成分だけでは説明できない活力をもたらすプラセボは、科学的にも証明された「幻想」の効果といえるだろう(ネガティブな予期が悪影響をもたらすノセボ効果もある)。エビデンスの構築過程ではノイズとして捨象されるものだが、個別の人間を考えるうえでは捨象できない。
わたしたちはつねに、一義的に規定しえないノイズや揺らぎを抱えた存在である。人間のそうした多義性を考えていく領野が人文学、とも言えそうか。「文」は訓読みで「あや」や「かざり」とも読む字で、つまり人文の「文」はことばのあや、修辞を意味するのだと聞いたことがある。誰からいつ聞いたのかはぜんぶ忘れた。
多義性という点で、江口氏の論にちょくちょく出現する用語がある。心理学者のジェローム・ブルーナーが唱えた「現実の仮定法化(subjunctivizing reality)」というもの。ブルーナーもまた、異なるふたつの思考様式について論じていた学者だ。その著書『可能世界の心理』のエピグラフには、ウィリアム・ジェームズのこんなことばが引用されている。
“人間のあらゆる思考には、本質的に二種類のもの——一方に推論と、そして他方に物語の、記述の、省察的な思考と——がある、と言うことは、たんに、すべての読者の経験が確証するはずのことを言っているにすぎない。”
そう、これはむずかしい話ではなく、誰もが経験的に知っている話だとわたしも思う。学知の二分類にとどまらない。この記事では、とても原初的なところまで掘り下げられたらと目論んでいる。というわけでつづけます。
“subjunctive(仮定法/接続法)” は想像・仮定・願望などをあらわす文法用語で、これと対置されるものとして一義性や確定的な事実をあらわす “indicative(直説法)” がある。
「現実の仮定法化」とは、直説法で表現された確定的な現実を、多様な視点を孕んだ仮定や想像の余地のある現実へと書き換えることを指す。自然科学的な論理を人文的な思考で補うこと、としてもよいかもしれない。
ブルーナーは、反実仮想を軸にした思考を「物語的思考様式」、直説法で表現されるファクトを軸にした思考を「論理的・科学的思考様式」ないし「パラディグマティック(範例的)な思考様式」などと言い換えている。両者は相補的で互いに還元不可能なふたつの様式だという。
牽強付会かもしれないが、わたしが日記1014においてフィリップ・K・ディックなどを引用しながら書いた「疑いをとりもどす」とか「可能性の余地」とかって話は「現実の仮定法化」に近い発想ではないか。『平和と愚かさ』でいうなら、三月に書いた感想(参照)で引いたプリピャチの場面が思い出される。虚構と現実が入り混じる主観的な描写は「現実の仮定法化」そのものだろう。
ブルーナーは科学と人文学の世界観のちがいについて、以下のように書いている。
“つまり、科学は人間の意図や人間の苦境を越えて不変のままにとどまる世界を制作しようとめざす。大気の密度は、世界への倦怠の関数として変化しないし、変化してはならない。他方、人文学者は、おもにそれを見る者の位置とスタンスによって変化する世界を扱う。科学は、理解を求める人びとの生活状態の変化を越え、事物や事象の不変性に結びついて「存在」する世界を作り出す——もっとも現代物理学はこれがきわめて限られた範囲内で妥当することを示したのだが。人文学は、そこに住むための要件を反映する世界を理解しようとする。言語学の用語で言えば、文学研究ないし文学批評の研究は、文脈依存性を通じて普遍性を達成するが、科学研究は文脈独立性を通じてそれをするのである。”
ジェローム・ブルーナー『可能世界の心理』(みすず書房、1998、p.84)
物語的思考様式は主観的でその場(その人物)の文脈・状況に依存しており、科学的・論理的思考様式は基本的に個別の文脈から独立している。
ここからわたしが想起するのは、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』である。むろん自然科学も人文学も文字ベースにはちがいない。しかし、これまで述べてきた思考様式の特徴は、オングが提示する声の文化と文字の文化それぞれの特徴と部分的に重なる気がする。どちらかというと人文学は声と近しい、自然科学は文字と近しいのではなかろうか。
オングの本では文字をもたない「声の文化」に生きる人々の特徴がいくつか挙げられている。そのなかでもとくに「状況依存的であって、抽象的ではない」という部分は、上述の文脈とも符合する。オングは声の状況依存性を、A・R・ルリアという研究者のフィールドワークを引用しながら論じる。
ルリアは読み書きのできない人々にいくつかの問題を解いてもらう。そのうちひとつはカテゴリー分けの問題で、たとえば「ハンマー」、「のこぎり」、「丸太」、「手おの」のうち道具と道具ではないものを分ける、といったもの。丸太以外は道具と考えられるが、声の文化に生きる人はそうは考えなかった。
“読み書きができない二十五歳の農夫はこう答えている。「みんな似たり寄ったりだよ。のこぎりは丸太をひけるし、手おのだって丸太をたたき割れる。どっちか捨てろっていうんなら、手おのかな。のこぎりのほうがいろんな仕事ができるもんな」。ハンマーも、のこぎりも、手おのも、みな道具だときかされても、かれは、そういうカテゴリーによる分類には関心を示さず、あいかわらず状況依存的な思考にこだわりつづける。「なるほどね。でもあれだよ、道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材木がなきゃはなしにならないよ。第一それがなきゃ、なんにも建たないだろ」。別の組みの四つのものを、かれはやはりみんなおなじようなものだと考えたが、そのうち一つを他の人間が除外したのはなぜかと問われて、かれはこう答えた。「きっと、そうした考えかたがそいつの血のなかにあるからだろうよ」と。
『声の文化と文字の文化』(藤原書店、1991、pp.111-112)
対照的に、村の学校で勉強したことのある青年に同様の問題を出すと、カテゴリー分けのほうの正しさに固執したという。
もちろん、どちらも思考様式が異なるだけで、一方が正しいと決めつけることはできない。両者ともそれなりに正しい。
余談めくが、オングの本に初めて触れたときわたしは「かけ算の順序問題」を思い出した。謎にえんえん議論されている問題だけども、あれはシンプルに状況依存的な声の思考様式(非可換的な思考)と、より抽象的な論理性をもつ文字の思考様式(可換的な思考)とのすれ違いではないのか。
文字を学んだからといって、たぶん声の思考様式が完全に消滅することはないだろう。人間のおしゃべりはやまない。文字の思考に教化されたわたしたちの社会でもなお、互いに還元できないふたつの思考様式がさまざまな場面で入り乱れている。ひとりの人間のなかにもこのふたつの角逐はある。すくなくとも、わたしはそう感じる。
オングを経由してだいぶ「原初的なところ」まで近づいてきた。もうひとつ、ふたつ、べつの角度から「ふたつの思考様式」に迫りたい。長くなってきたけど、がんばろ。ワイ、がんばる。
ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房、2021)という本がある。
このなかで文学研究者のサヴァリーズは、自閉症者とそうではない人のちがいを、カテゴリー化以前の詳細な感覚が優位か、カテゴリー化(十把一絡げな一般化)が優位か、みたいな図式で整理している。「自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する(p.66)」。文学は感覚と思考を結びつけるものであるから、両者の橋渡しになるのではないか? と、この本はそんなコンセプトで書かれている。
自閉症と声の文化はべつに直結しないと思うが、サヴァリーズの言を鵜呑みにするなら一般化に難があり状況依存的にならざるをえない身体的な間合いは似ている。順番として、両者とも個別の状況が先んじる身体をもつ。
自閉スペクトラム症が俗に(不当にも)「コミュニケーションの障害」とされるゆえんをわたしは、これまで述べてきたような「ふたつの思考様式」のすれ違いかなと仮説的に考えている。ほんでこの「ふたつの思考様式」は程度の差こそあれ、誰でも両方あわせもっている。
「感覚が思考を圧倒する」。そんなときは誰にも訪れると思う。わたしたちの生きる世界は最初から最後まで偶然に満ちていて、非常に混沌としたものではないか。「偶発事は空から降りそそいでいる宇宙線みたいに絶えずわれわれに降りそそいでいて、ただ気がつかないだけのことが多い」という中井久夫のことばを思い出す。
たとえばひとりでさびしいとき、心細いときなどには感覚が優位に働きがちだろう。わたしはときどき、意味なく夜中に何時間も歩く。そのときの自分は、あきらかに感覚優位だ。風の感触や匂い、気温の変化、ちょっとした物陰の動きにも敏感になる。あらゆるものにビビり散らかす。街灯や信号が照らす光りの色味、影のゆらめきが妙に美しく見える。静まりかえった住宅街に響く虫たちの協和に胸を打たれてひれ伏したくなる(大丈夫か?)。ふだんはそんなこと、ぜんぜんないのに。
あるいは見知らぬ土地へ旅に出たときも、人は感覚優位になりがちではないか。目に映るもの、触れるもの、なにもかもが新奇に感じる。東浩紀の『平和と愚かさ』は紀行文の形式をとり、半分はそんな一回性の驚きとともに綴られた本だと思う。それを哲学的な論理と融合させている。思考と感覚を経巡りながら「友か敵か」などの既存のカテゴリーに支配されがちな論理性をいかに崩すか、「賢さ」からいかに距離をとるか、といういわば「ふたつの思考様式」を往還するスタイルだとわたしは読みとった。
「感覚/論理」のふたつ。これは、「こども/おとな」のふたつにも変換できる。
発達心理学者のアリソン・ゴプニックは著書『哲学する赤ちゃん』(亜紀書房、2010)のなかで、こどもの意識傾向を「ランタン型」、おとなの意識傾向を「スポットライト型」と例えている。ランタンのようにまんべんなく全体を感覚しようとする傾向と、スポットライトのようにまっすぐ目的へ意識を向ける傾向。「感覚優位/カテゴリー化優位」みたいな対比ともなんとなく符合する。
ゴプニックは、おとなでも「ランタン型」の意識になるときがあるという。その例として、旅と瞑想を挙げる。ある種の宗教的、あるいは美的な体験をしたときにも現れるという。
わたしなりに言い換えるなら、それらは「わからなさ」に見舞われる体験ではないだろうか。こどもはまだなんにも知らないから、あらゆるものに注意を払うほかない。おなじように年齢は関係なく、わからない状況に身を置いたときには、きっと似たような状態になる。これは知性のモードなのだ。
わからない状態は、孤独な状態ともいえる。こどもはみんな、まだ集団の成員として世に組み込まれる前の、孤独な存在だと思う。やつらの不安定さはそこからくる。おとなでも孤独を感じると、こどもっぽくなりがちだ。それはかならずしも悪いことではない。いくつになろうが、人には孤独な面がある。すなわち、こどもっぽさがある。そして、そこからひらける知性がある。
哲学者・数学者のバートランド・ラッセルは『ラッセルは語る』というインタビュー集のなかで「哲学と科学の違いはどこにありますか」と問われ、こんなふうに答えている。
“さあ、大ざっぱに言えば、科学とはわたくしたちに分っているもの、哲学とはわたくしたちに分らないもの、でしょうかね。これは単純に定義したものですが、このために幾つかの問題が、知識の進歩につれて、絶えず、哲学から科学へ移りかけているわけです。”
『ラッセルは語る』(みすず書房、1964、pp.5-6)
ラッセルは科学と哲学を「わかる/わからない」の動的な照応関係として捉える。まだわからない「仮説の領域で想像的世界観を拡げることは、哲学の使いみちの一つ(p.7)」と。仮説が証明されればそれは科学になる。これに加えてもうひとつ「大切と思う使いみち」を語っている。
“それは、わたくしたちが分っていると考えていたもので、じつは分っていないものがあるということを、示すことです。一方では、哲学は、わたくしたちが分るようになるかも知れない事柄について、わたくしたちに考え続けさせてくれるためのものですが、他方では、知識のように見えるものが、いかに知識でないか、それをわたくしたちに謙虚に気付かせてくれるためのものです。”
(同、p.7)
「わかる」はむろん知性の働きだが、「わからない」という感覚も重要な知性のひとつだ。『世界をわからないものに育てること』という加藤典洋の本がある。中身は読んでいないけれど、とても印象的なタイトルだと思う。世界をわかるものに育てることは同時に、わからないものに育てることでもある。ひとつの倫理観として、両輪あることが望ましいとわたしは思う。
「わかる/わからない」の往還は「集団/個」の往還と読み替えてもそう遠くない。「人間は孤独でもありえず、社会的でもありえない厄介な動物である」とは、中井久夫が「バートランド・ラッセルの警句」として記していたことばだ。中井はこうつづける。
“ほとんどすべての人が思い当るフシをもつであろうこの警句の底にあるものは、あるいは、われわれの自己の中に「他者」が矛盾を醗酵させるパン種のように仕込まれていることによるのではあるまいか。
われわれは、わずらわしい人間関係にあって、ひとりあることのしずけさとのどかさをおもう。雑踏の中にあって、はるかな山なみに視線をはせるごとく、ほとんど郷愁のごとく孤独をおもう。しかし、また、孤独がひしひしと全身を押し包むとき、壁にでも話しかけたいような苛立ちを覚えるであろう。われわれは、他人を愛し、憎み、孤独を愛し、憎む。「孤独と友情との微妙なバランスこそ」と、あるフランスの詩人は言った。そしてそれは静止しているバランス(秤)ではなく、揺れてやまないバランス、行きつ戻りつする秤である。”
『中井久夫集1 1964-1983 働く患者』(みすず書房、2017、p.23)
生きていると、わたしたちはどうしようもなく集団のなかに位置づけられる。他方で、どうしようもなく「みんな」に溶け入ることもできない自己を抱えている。どうにも割り切れない、〈わたし〉という奇妙な存在を。相矛盾するふたつの身体をどっちつかずにもてあます。「ふたつの思考様式」とは、この「ふたつのどうしようもなさ」に淵源するものではないだろうか。
人間のことばはいつも、ふたつの狭間を逍遥している。どちらの面に光を当てるかで、ものごとの見え方はがらりと変わる。
こんなところで終わります。これはじつはサヴァリーズの本を読んだ数年前から薄ぼんやり考えていたことで、粗雑ながらまとめることができてよかったと思う。といっても、とりとめなく長々と書いてしまった。
要はローカルな思考とグローバルな思考があるよねってだけなんですが……。矛盾しがちなふたつはさまざまに姿を変えて、社会のなか、ひとりの人間のなかでも複雑に絡み合っている。みたいな話。散らかすのは得意だけど、まとめるのはとても苦手です。
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