2月末以来の更新。 月に一度はなんか書きたいと言いながら、約3ヶ月もぼんやり過ごしていた。すべてがどうでもよく思えてならないという、絶えず潜在している気分が底にはある。ことばから距離をおきたい。とりたてて言うこともない。ふらっとどこかへ出かけて、知らぬ間にいなくなりたいと思っている。いつも。行旅死亡人みたいな宛てのない死体として漂っていたい。遠くに行くと落ち着く。いなくなりたい。とにかくわたしは、いなくなりたい。それはいずれ叶う。それだけが希望かもしれない。 https://youtu.be/4Mg2GIAm1TI 米陸軍レンジャー学校選抜訓練の動画を見て気をとりなおす。「これがお前たちの人生だ!」 5/16 石倉優さんの写真展に行った。会場のニコンプラザ東京は、ビルの28階にある。そんな高い場所でやっているとは行く直前までつゆ知らず、たいへんおそろしい思いをした。エレベーターこわい。 それはさておき、展示も写真集もとてもよかった。でも言及がむずかしい。軽々しく触れてはいけないような雰囲気がある。まず自己認識として、わたしはそうとう鈍臭いアホである。自分のことばは安易になりやすい。 石倉さんの読者としては、安易な言語化(象徴化)からことごとく身をかわすような位置どりに魅力を感じる。その魅力は自分のような人間が不用意に「理解」やら「解釈」やらをたれると、きっと損なわれる。「ない」がある。その位相において語ることを要求される。あるものをあるように語る能天気さが許されない。空白を空白として、それをできる限り侵さぬように、しかし、あらしめようとする矛盾に身を置くこと。孤独を孤独として、と言ってもいいかもしれない。「わかるように」ではなく、「わからないように」。なにか、明確に名指した瞬間、ぜんぜんちがうものになってしまう気がする。 たぶん、わたしは(どうしてそうなったのか知らないが)写真展に来られた多くの方とは異なるパースペクティブで「石倉優」という方の活動を見てしまうため、変な話になる。正面切って安易に言ってしまえば、自分が惹かれるのは「人間の孤独」。それだけなのだと思う。でもそれは写真展とは関係がない。ともすれば、石倉さんとも関係がない。話にならないが、話にならない話にしか興味がない。なにをみても、それとは関係ないことを思ってしまう。だからあまりことばで云々し...
思いつきメモ。 幻覚剤が精神疾患に効くんじゃないか? という話があって、めっちゃ大雑把にいえば「幻覚剤で文脈を揺さぶる」的な説明(仮説)がなされていた。デヴィッド・ナット『幻覚剤と精神医学の最前線』(草思社)、あとマイケル・ポーランのいくつかの本を参照したうえでの理解。 なんか斎藤環『イルカと否定神学』(医学書院)に書かれていたオープンダイアローグの効果(これも仮説ではあるが)と似ているように思った。 方法としては、かたや幻覚剤(超ケミカル!)、かたや対話(超ヘルシー!)とまったく異なる。しかし機序の説明が似ている。素人の臆見に過ぎないが、この相似は非常に興味深く思う。 もしかしたら、すでに誰か指摘しているのかもしれない。あるいは、こんな(突拍子もない)つながりを見いだす人間は自分くらいなのかもしれない。野蛮な奴が野蛮な発想をしている、と思ってもらってかまわない。同じ分野とはいえ、まるで毛色のちがう本を並行的に手にする好奇心がすでに、野蛮なもんだろう。 以下『幻覚剤と精神医学の最前線』からすこし引用する。 “スモールワールド性を持つ脳のローカル接続は、すべての事前知識に依存している。私たちが乳幼児期から培ってきた、ありとあらゆる状況に対する事前知識である。これは、日常生活を送るうえで、極めて優れた仕組みとなっている。エネルギー効率も非常に高い。私たちの脳は、既知のいかなるコンピュータに比べても、10倍の効率性を誇る。 その一方で、脳のこの効率性は、柔軟性の欠如や創造性の喪失といった、いくらかの代償をともなう。そして、この効率的に働くネットワークのうち自尊心や人生に対する姿勢を決定するものが不適応だとしたら、精神疾患を引き起こす可能性がある。 サイロシビンの影響下では、そして後の研究で示されたようにLSD影響下でも、脳内のつながりが図3bのように変化する。より多くの脳領域の間に、新たなつながりが大量に生まれていることがわかるだろう。「スモールワールド」が、「ラージワールド」ネットワークになるのだ。いつものネットワーク内でのコミュニケーションが断ち切られ、ネットワーク間の相互作用が増幅される。手かせが外れた脳はすっかり自由になり、幼児期以来なったことがない状態に戻るのだ。 このことは、幻覚剤を摂取した人々が描写する、意識の広がりや宇宙とのつながりといっ...