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投稿

日記1026

なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれているような感覚を、飴屋法水『たんぱく質』(palmbooks)から受け取る。生き物はみんなたぶん、なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれている。ごくわずかな、わかりそうな部分を後生大事に抱えてなんとかやっている。そのちいさな欠片だけで、なにもかもわかったような気になってしまう人もいる。ときに、わたしもそう。 生き物としての人間の話ができる人はあまりいない。生き物としての身も蓋もないさだめ、身も蓋もない卑小さをいつも小脇に抱えているような人。名前のない、未分化なただの生き物として茫漠とたたずむ人。飴屋氏はそんな人に該当するかもしれない。 “私は私に、閉じ込められている 私という不自由に、閉じ込められて生きている、しかし生き物としての体の中には、私が生きたかもしれない、別の誰かが眠っている、私が私になる前の、まだ何者でもなかった生き物のことを、私の体は覚えている、それは私の中で眠り続けている、生き物は皆、それを抱えながら生きている、私が話したいのはこのことだ、誰しもが、別のなにかでも、ありえたのだ ありえた自由を抱えたままで、私は、私の不自由を生きていく” 『たんぱく質』(p.95) 9月の最終日曜日、編集者の郡淳一郎さんとダダイストの山本桜子さんのトークイベントへ出向いた(@浅草橋天才算数塾)。『たんぱく質』を読みながら、イベント終了後の交流会で山本さんと交わした会話の質感を思い出していた。似ている。何者でもない生き物としての人間について話していたと思う。犬猫やゴキブリや芋虫や爬虫類の話もした。原始人の話もした。人間をふくめた生き物たちがなんの序列もなく飛び交う会話。 わたしが水を向けたところもあるけれど、それは「この人ならできる」と無意識に感じたからだろう。ふいに「人間って殴ったら死ぬじゃないですか」などと口走っていた記憶がある。自分に驚いた。およそ初対面の人とするような水準の話ではない。ふつうに考えたら不躾にもほどがある。しかし、失礼には当たらない感触があった。むしろこの水準が礼に適うのだと。 単純に殴ったら死ぬ存在としての人間の話。「田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死んでしまう」みたいな話。「私」なんかどうでもいい、だれであろうがおなじ、乱暴な話。安いヒューマニズムから遠く離れた原野の精神性とお話ができた
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日記1025

忘れかけていた。最低でも月に一度は書こう。ときどきメールをくれる友人が思い出させてくれる。「なんでもいいから書いてくれ」というメタメッセージがそこには含まれている気がして、それがなくてはなにもかも忘れてしまいそうだった。 夏もとっくに峠を越えて、ここ数日はだいぶ涼しい。9月も終盤に入り、ようやく秋らしい日和。 以前はイベントへ赴くたび、なにごとかをここに記していた気がする。このところあれこれ見聞きしても、人に会っても、ほとんどなにも考えず、ぼーっと過ごすようになってしまった。不義理を働いているかも、という思いと、それはそれで悪くはないか、という思い、両方ある。ひたすらに、ぼんやり出来事を眺めている。イカみたいに。 “イカは信じられないほどに複雑な眼球を持っていて、そこから膨大なビット数の情報を取り入れている。ところがその目に比して、脳の構造のほうはあまりにも原始的で単純にできているので、とてもそれだけの情報量を処理できる能力はない。イカの群れは悠然と大洋を泳ぎながら、すばらしく高性能なカメラで地球の光景の観察を続けているが、それを呆然と見続けるだけで、情報処理を行わない。” 中沢 新一, 波多野 一郎『イカの哲学』(集英社新書) tumblr でぐるぐる回覧されつづけている引用。この部分だけ何度も読んだが、元の本には当たっていない。これがほんとうかどうかもわからない。ほんとうのところは、イカにしかわからない。でもこの通りだとするなら、ことしの夏はイカのような状態で日々を過ごしていた。ただ呆然と漂う。 カメラを持ってあちこち行くだけ。 だいたいひとり。 2023年末あたりからか…… twitter で写真を投稿している人とぽつぽつ繋がるようになった。それまでは孤立しており「無言で写真だけを上げつづけているアカウントなんて、あまりないだろう」と思いこんでいた。すこし探しづらいだけで、蓋をあけてみればたくさんあった。蓋があいていないだけだった。ことばまみれのタイムラインが、たちまち画像まみれに。2024年5月あたりから、わたしのアカウントをフォローしてくださる方も謎に増えた。 とはいえ実際的なつながりはほとんどなく、孤立していることに変わりはない。そんななか、フォロワー増加のきっかけをつくってくれた twitter アカウントのひとつだと思う、quo さんと先日リアルでお

日記1024

 “認知症になると、乳児の反射作用がもどってくる。霊長類の赤ん坊が生き延びるために進化が演出した動きで、「モロー反射」(体が突然落とされたり、移動が加速したりしたときに腕を振り上げる動き。樹上生活をしていた祖先からの名残であり、祖先の幼い命を救った)と、「ルーティング反射」(頬を軽く触られると、ミルクを探そうと首を回して口を開ける動き)と呼ばれる。高いところから落ちて、母親と離れてしまうことは、生まれたばかりの人間にとって生得の基本的な恐怖である。  どちらの行動パターンも生後数ヶ月で消えるが、認知症や脳損傷で復活する。ただし人生の最後に再構築されるわけではない。ほんとうに消えたのではなく、何十年もつねに存在していたが、隠れていたのだ。人生のさまざまな糸が織り合わされるうちに、高次機能を重ねられ、抑制と認知制御に覆われていた。その布地がすり切れ、織目がなくなり、本来の自己が再び現われる。安全な場所を求めて、はるか昔に亡くなっている母親をつかもうとする手の動きには、胸を締めつけられる。” カール・ダイセロス『「こころ」はどうやって壊れるのか 最新「光遺伝学」と人間の脳の物語』(光文社、pp.296-297) 「多世代人格」ということばを想起する。社会福祉施設「よりあい」代表の村瀬孝生さんが書いていた。人の体の中には「すべての世代のわたし」が生きているのではないかと。年輪のように。わたしもそう感じる。わたしたちの体は無数の過去が乗り移るようにできている。認知症による乳児返りまでいかなくとも、マドレーヌを紅茶に浸すとよみがえるたぐいの入口もある。「過去は物質の中に隠れている」とプルーストはいう。「体の中」と「物質の中」、両者の相互作用において発現するものかもしれない。記憶は体と空間の狭間をただよう。 いま目の前をコバエが飛んでいる。ちょうどこんな虫みたいに、記憶も飛んでいるのだと思う。ゆだんするとすぐに見失う。そしてまた、どこからともなく飛んでくる。コバエの比喩はあんまりだから、鳥にしておこうか。ベランダにやってくる小鳥たちのように、ふとあらわれて、ふといなくなる。でも、つねにどこかには潜在している。記憶もそういうものだと思う。あるいは埃でもいい。いつもそのへんを舞っている。しかし目にうつるのは、光が射したときにだけ。 ただよっているのは自分の記憶のみではない。わたしたち

日記1023

  6月某日 日記1020 で「ちょっと飛んだこと」として、記号接地問題は感動の問題だと書いた。知人から「それはべつに飛んでない」と指摘してもらった。言語学者の今井むつみ氏は記号接地と人間の感情を紐づけて論じているらしい。いろいろ読まないといけないなあと思う。 忘れていたが「感情は接地だ」とは、 2020年9月の記事 にもすでに書いていた。我ながら進歩がない。ひとりで考えるだけ考えておきながら、さほど情報収集などしていないせいだろう。だいたい直観でそれっぽいことを書いて満足している。不勉強。こんなこと話す相手もいないし。すぐに忘れて、おなじようなこと何回も書いちゃう。    7月7日 都知事選の日。主に3つの選択肢で迷う。安野貴博 or アキノリ将軍未満/外山恒一 or 棄権。今回は、安野氏に1票を入れた。とはいえ、自分にとってこの3つの選択肢はひとしく価値をもつ。スマートな理性(安野氏)と、反スマートな理性(アキノリ氏/外山氏)。加えて、なんにもかかわりたくない、たのむから静かにしてくれという感情(棄権)の3本立て。無駄のなさ(安野)と無駄の欲しさ(アキノリ/外山)と、どうでもよさ(棄権)。 「ひとしく価値をもつ」は嘘かもしれない。もっとも強いのは、「なんにもかかわりたくない」の気持ち。わたしは貝になりたい。じっと、深い海の底で永遠に押し黙って、静かに打ち沈んで、時がきたらひっそりと消えてしまいたい。 などと切に願いつつも、暑い陸上を歩いて投票所まで出向き、顔を合わせた近所のおっちゃんと挨拶を交わし、投票立会人のおっちゃんたちともやわらかく挨拶し、「安野貴博」とキッチリ漢字で記して有効票を投じる、結局は真面目な小市民なのだった。自分ひとりの価値観と、共同体を考慮したすえの価値観はおのずとちがってくる。ひとりなら、断然「なんにもかかわりたくない」。 上記3つの選択肢は、こう言い換えることもできる。ちゃんとしてそうな社会性(安野)、ちゃんとしてそうな裏返しの社会性(アキノリ/外山)、社会もくそもない孤独(棄権)。ぜんぶだいじ。というバランス感覚で生活しています。 誰のなかにも、異なる価値観が並行して走っているものだと思う。しかし、「迷いはあるけど不承不承この人かな」みたいな選挙の話はそんなに見かけない気がする。多くの人は大なり小なり葛藤しながら「ほんとだるいなー、しょ

日記1022

  ギバーおぢ。 わたしのなかでは、お金を使い過ぎた際などに使うことば。「ちょっと今日はギバーおぢしちゃったなあ……」みたいに。散財しまくりたいときにも使う。「よーし、今日はギバーおぢしちゃうぞ~」みたいに。いずれにせよ、お金を使ったあとの気持ちはすこしかなしい。「ギバーおぢ」ということばは、そんなかなしみの受け皿になる。「おぢ」の滑稽味がかなしみを引き立てる。笑いながら泣けることば。ギバーおぢ。 さいきん心身がつらいので体を鍛えている。元気だか元気ないんだかわからん。なんでも混ぜてしまう。カレーの要領で。元気もつらいも混ぜてみるとおいしいと思う。カレーのようなメンタルでありたい。なに混ぜてもカレーだ。元気だろうがつらかろうが知ったことか。混ぜりゃカレーだ。なにを言っているのだろう。 近所の公園にうんていがあった。そこで夜な夜なトレーニングするおっさんがいた。わたしもときどきぶら下がっていた(おっさんがいないとき)。おとといの夜だったか思い立って、久しぶりにその公園へ行ってみると、うんていは撤去されていた。もうあのおっさんを見ることもないのか。仕方がないので意味なくジャングルジムにのぼった。けっこう頭つかう。パズルを解くように手足をかけていく。たのしい。三十路過ぎてもジャングルジムがたのしい。 こんなんで十分だ。もうなにもいらないと思った。深夜のジャングルジムのてっぺんでひとり、すべてを手にしたかのように。遠巻きにかすかな虫の声がきこえる。蒸し暑い空気を深く吸う。雲の合間に星がちらつく。ここでエンドロールが流れろ、と願う。もう終わってくれていいのに、とは何年も前から感じている。たのむから終わってくれ。わざわざ願わなくとも、いずれ不意に終わるのだとは思う。それでも。 ことばは「それでも」の産物ではないか。「にもかかわらず」とか。なにも言わないに越したことはないけれど、それでも。わたしはいつも、その地平からしゃべっている気がする。誰に宛てるでもなく。もて余したところだけ。すこしだけ、祈りをふくんで。たいていは、黙ってほほえんでいる。 終わる、というその一点において、すべての物語はハッピーエンドだと誰かが言っていた。どんな終わり方であれ、終わること自体が幸福なのだと。素敵なアイデアだと思う。笑いながら泣きたいと思う。それがいちばんだと思う。

日記1021

前回( 日記1020 )、予告した内容を適当に済ませたい。 日記882 とも関係する。書こうと思っていたのは、「できないことが練習によってできるようになる過程」のふしぎについて。そこでは現実と虚構の均衡が起こる。以上、おわり。いや、もうすこし展開すべきか……。伊藤亜紗『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)を読んでいるとき思いついた。この本のプロローグに「技能獲得のパラドックス」というものが出てくる。   “①「できない→できる」という変化を起こすためには、これまでやったことのない仕方で体を動かさなければならない  ②そのためには、意識が、正しい仕方で体に命令を出さなければならない  ③しかしながら、それをやったことがない以上、意識はその動きを正しくイメージすることはできない  ④意識が正しくイメージできない以上、体はそれを実行できない”(p.9)   つまり「体が意識の完全なる支配下にあると仮定するかぎり、私たちは永遠に、新しい技能を獲得できない」というパラドックス。あらゆる技能獲得は意識を振り切って「体はゆく」からこそ可能になる。思いがけずできてしまう飛躍がある。なんでかしらんけど。意識はそのことに、あとから気がつく。あれ? もしかしていま、できてた? と。 “「できる」とは、自分の輪郭が書き換わることであり、それまで気づかなかった「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」に着地すること(p.239)”と伊藤は書いている。意識がそれまでの自分ではありえなかったべつの自分に触れる。できてしまう。まるで自分ではないような自分があらわれる。それは感動的であり、よく考えればゾッとする不気味な事態でもあるのかもしれない。 なぜ、できないことを練習すると「できる」に至るのか。上記の「グレーゾーン」を「現実と虚構の均衡点」などと言い換えたところで、なにもわかった気がしない。ただ、過去に自分が考えていたロジックがここにも当てはまりそうだと気がついただけ。 もうひとつ引用したい。田中彰吾『自己と他者 身体性のパースペクティブから』(東京大学出版会)には「コツをつかむ経験」について以下のような記述がある。    “コツをつかむ経験において生じているのは、身体イメージに沿って意識的に身体を動かしている状態から、状況に見合ったしかたで全身が自発的に動く状態へ

日記1020

6月4日(火) 夕飯どき、空になったペットボトル片手に地元をほっつき歩いていると、北野武と目があった。ゴミ箱を探していたら、たけしを見つけてしまった。ごっつい高級車から降りて、通行人を一瞥する。そこに出くわした通行人がわたしだった。関係者以外、ほとんど誰も気づいていなかったように思う。なんの変装もしていない、そのまんまのあの人がいた。幾人かの男性に囲まれ、手際よく建物の中へ入っていく。歩道に姿をあらわした時間は、おそらく10秒にも満たなかった。 こんなこともあるんだなと思う。芸能人なんていそうもない場所だったので余計に面食らった。言ってしまえば汚い路地裏。ただ、いい感じの小料理屋がいくつか並んでいる。その路地を抜けた先に自販機とゴミ箱がある。ペットボトルの中身を飲み干していなかったら、あの数秒間に出くわすことはなかったであろう。いや、6月4日のすべての行動がすこしでも違ったら、あの場にわたしはいなかった。さらに大きく言えば、この街に住んでいなければ、いっそ生まれていなければ……と究極的には宇宙のはじまりまでさかのぼれるような気もする。 すべての出来事がこのような連関のうちにあるのかもしれない。「すべての偶然があなたへとつづく」みたいな。そんな歌あったな。つまりカップラーメンを床にぶちまけて泣いたあの日も、切れ痔に悩んでいたあの日も、カバンを盗まれて野宿したあの日も、営業先で犬に追いかけられたあの日も、いままで経験したありとあらゆる日々が2024年6月4日(火)の夕方、北野武との遭遇のためにつづいていたのか。そういうことか。それはしかし、どういうことだ。だからなんだというのだ。なんかうれしかった。それくらいのことだ。 わずかでも「意味がある」と思える瞬間がおとずれるとき、こうして人生のストーリーが再編されるんだろう、などとぼんやり考える。拾い上げたその意味を中心に、過去の出来事のつながりが編み直される。「報われた」とか「罰があたった」とか。良くも悪くも。 ここに運命の導きを見出して「もう芸人になるしかない!」と思い込んでもいいのかもしれない。もしもわたしが前々から芸人になりたくて、でもなかなか踏み出せないという悩みを抱えていたならば、きっかけになりそうなもの。しかしそんな悩みは抱えていない。そういう因果のうちに自分はいなかった。 「自分なりの因果関係をつかまえる」みた