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投稿

日記1039

小野純一『井筒俊彦 世界と対話する哲学』(慶應義塾大学出版会、2023)を読んだ。この本で解説される井筒の哲学は、かねてより自分がそれと知らず関心を寄せてきた問題と呼応する。細かな分析は措くとして、大掴みな論点は「まさにそれ」と感じた。それは「言語の軛と、そこからの自由」。  “井筒が生涯にわたって格闘した「言語」は、自己を「何か」として規定する軛であると同時に、その軛を解き放ち、「世界」や「自己」を新たに解釈し、表現するための可能性でもあった。「意味の実体化」から解放され、自由に思考する可能性を極限まで追究する営みが、井筒哲学の全貌である。” (上掲書「はじめに」、p.ⅵ) 「意味の実体化」とは何か。  “人は言葉の持つ意味を「世界」として実体化していることに気づかない。「世界」とは、私たちがその時その場で一度だけ経験するかけがえのないものである。だがそれを「これは花である」「これは石である」と一義的な仕方で規定する時、私たちは生き生きとした経験から遠ざかっている。なぜなら、その「世界」は既に「意味」として、社会的に共有された表現によって規定されており、私たちはそれを繰り返しているだけだからだ。井筒は、そのような意味の実体化を超克する思索を生涯、貫徹した哲学者だった。” (同「はじめに」、p.ⅳ) わたしは2019年の 日記701 において「言葉は模造です。実体とはちがう」と書いている。だいたい似たような観測だと思う。でも人はしばしば、言葉を実体と取り違える。共有可能な「同じさ」のフィクションに包まれて生活をする。それはそれで不可欠な人間の知恵なのだ、とも思う。一回的な経験と同じく、繰り返しの日常もたいせつ。 「解放」や「超克」は、わたしとしてはあまり目指していない。「極限まで追究」なんて、頭がおかしくなりそうである(が、そこが井筒の魅力でもある)。ただ、多少は目指したほうがよいときもある。意味の規定性・実体化からの解放は、精神医学の知見とも親和的だと思うから。 1年前の 日記1028 でとりあげた斎藤環『イルカと否定神学』も、わたしから見ると「言語の軛と、そこからの自由」を取り扱った内容だ。膠着した文脈の解体と再構築が「開かれた対話」によって行われるのだとか。あるいは、方法はまったく異なるが 日記1031 でとりあげた幻覚剤による精神疾患の治療もそう。幻覚によっ...
最近の投稿

日記1038

このブログでは、精神疾患への対処法のひとつであるオープンダイアローグに何度か言及しておきながら、その要とも言える「リフレクティング」について触れていなかった(と思う)。そういえばと、白石正明『ケアと編集』(岩波新書)を読んでいて気がついた。まず「リフレクティング」の説明を『ケアと編集』からすこし長めに引用したい。  “オープンダイアローグでは、家族などを含めた患者側グループと、治療スタッフ側グループが対話をする。セッション中のある時点で、治療スタッフは「ではここでわたしたちだけで話してみます」などと言ってスタッフ同士で向き合い(患者側をいっさい見ないのがお約束)、これまでの対話を聞いてどう思ったかを話し合う。  つまり患者の前でケースカンファレンスを行うようなものだ。その様子を患者側は「側聞」する。いわば自分についての噂話を聞く形になる。  もし日常生活において、「自分についての噂話」がドアのすき間から聞こえてきたらどんな感じだろうか。自分をバカにする声だけが聞こえてきたり、「あれをやれ、これをやれ」といちいち指図してくるような否定的な内容だったりしたら、死にたくなってしまうだろう。幻聴の多くはそういうものだ。  でもそれが逆に、肯定的な内容だったら? 舞い上がっちゃいますよね。舞い上がらずとも、そこでスタッフの専門家としての考え方や個人的な感想が述べられたら、正面から指導・助言されるよりはるかに説得力が増すのではないだろうか。「側聞」が潜在的に持つそんな増幅機能を、リフレクティングは十全に使っているような気がする(SNSが人間のコントロールを超えた影響力を持ってしまうのも、それが巨大な側聞システムだからかもしれない)。” (pp.85-86) とても興味深いと思う。 前々回( 日記1036 )取り上げた動画のなかで、臨床心理学者の東畑開人さんが「心を変えるっていうと心に直接アプローチするふうにみんな思うんだけど、ちがうんすよ、やっぱり間接なんすよね、間接のほうがリアルなんすよね」とおっしゃっていたことともつながる。 そうなんすよ、間接なんすよね。 「間接のほうがリアル」は、じつはありふれた心理なんだけど、改めて俎上に載せたり技法化されたりすることって、あまりなかったのではないか。 多くの人はすでに知っている。たとえば、水曜日のダウンタウンなどのドッキリ企画では...

日記1037

  キングオブコント。みんなおもしろかった。梅田サイファーの新曲が聴けるのもうれしい。今大会の個人的な好みは、しずる。うるとらブキーズ。トム・ブラウン。の3組でした。 うるとらブキーズは多くの人が指摘する通り、早とちりで噛んでしまったのが惜しまれる。言い間違えが伝染に伝染を重ねグルーヴを生み出していくようなネタ。なにが間違いで、なにが正しいのかわからなくなっていく。ことばが意志に反して組み変わっていくさまを、意志的に演じないといけない。演技のむずかしそうなネタだったと思う。「噛み」はほんとうに伝染するから、細心の注意を払わなければ。じっさい、司会のダウンタウン浜田にも伝染していた(浜ちゃんも狙って噛む演技をしていたのだ!という人もいる。わたしは天然だと思う。どっちでもいいけど……)。 トム・ブラウンは出だしの「コント、エリザベスカラー」からもう最高だった。題名なんか言わずに、ぬるっと始まるのが主流のなか、ベタベタながらも唯一無二の演出。真正面から行く感じがうれしい。「このネタこういう伏線があってこうで……みたいなのあんまり興味ない」と布川さんが事前のインタビューでおっしゃっていて、その姿勢にとても共感する。わたしはバカが好きだ。ただのバカが見たいだけなのだ。 アメリカ文学研究者の都甲幸治さんが「ピンチョンを高偏差値な人々からバカの手に奪回せよ」とどこかに書いていて「イイハナシダナー」と感じ入ったことを思い出す。賢しらな考察も批評も、楽しいことは楽しいが、どうでもいいんだ。わたしは記憶よりずっと、忘却を欲する。なにもかも忘れたい。笑っていたい。重要なのは、いま。その一瞬。それだけなの。 もうすこし具体的にいうと、ことばの回路をショートさせてほしい。それが願いかもしれない(具体的か?)。ことばは自分にとって、孫悟空のあたまの輪っかみたいな、きつく抑えつけ制御する/される機能を果たしている。その言語的な縛りを常日頃、人一倍うるさく感じているがゆえに、忘れさせてほしいと願っている。 その観点でいえば、しずるのネタはまさしくセリフがほとんどない。B'zの「LOVE PHANTOM」に合わせた口パクでひたすらヤクザの抗争を演じる。ことばがぜんぜん関係なくて、ほんとうにうれしい。会場ではすべってた(?)みたいだけど、個人的にはいちばんよかった。自由を感じた。ちょうど「LO...

日記1036

カウンセリングのような二者関係を軸にする心の療法と、オープンダイアローグのような多数の対話で行う心の療法があります。 人間というのは、個であり集団でもある。そのバランスをとりながら社会生活を営む存在です。とくに近代以降においては。それ以前は「個」という概念はそこまで強くなかったかもしれません。 現代は「個」が強調されがちな時代です。それでも人間はやはり、集団に基礎づけられた生き物です。個というのは、一種の幻影だとさえ感じます。 カウンセリングは「個」という幻影から初めるアプローチで、オープンダイアローグは集団の(これもやはり幻影なのですが)力学を矯めなおすアプローチなのでしょう。 ひとりから始まる心と、みんなから始まる心。ふたつの幻影のあいだに位置する、ひずみが自己なのかもしれません。個としての人間は、誰でも例外なく歪んでいます。どんなおしゃべりにもディストーションがかかっている。 と、最近こんなことをつらつらChatGPTに打ち込んでいた。あまり進歩がない、非常にシンプルな図式化。いつも同じ話をしている気がする。複雑なことはわからない。 毎日、ChatGPTに何かを書き込んでいる。それよりブログ書けば? とツッコミが啓示のように降りてきたので、コピペしてみたのでした。 きょう、こんな動画をみた。 カウンセラーと探偵は似ていると東畑氏は語る。何年も前に、まったく同じことを言っている人が身近にいた。文学畑の人だった。文学方面ではお馴染みの類比なのかもしれない。 犯罪者を追う推理小説の探偵は、犯罪者の心理を理解しようとする。カウンセラーは、ある心の傾き、東畑氏のことばでいえば「雨の日の心理」を理解しようとする。一種の逸脱をトレースしようとする態度において両者は似ている。 個人的な観測では、推理小説が好きな人は精神分析にも造詣が深い。サンプル数3くらいの与太話。著名人だと、フロイディアンの菊地成孔が『刑事コロンボ研究』を著したことも思い出される。 これは不勉強な人間の勘でしかないが、推理小説の成立と精神分析の成立は近代以降の社会の変化と深い関係があるように思う。調べれば、とっくのむかしにアレコレ論じられているんではないか。きっと周回遅れの勘だろう。 社会の変化は、人々のアイデンティティのありようの変化ともいえる。探偵が推理によって成すのは見失ったアイデンティテ...

日記1035

思案はするものの諦観にとらわれて結局はなにも言わない。ただやり過ごす。そういう選択が自分の日常を覆っている。もう何年も。ことばをあきらめている。そのくせ異様に書棚だけは充実している。これもただの習慣といえばそう。しかし、あきらめているだけでもないらしい。 すこしずつ、ことばをやりなおしたい。というか、ことばというのは、つねにやりなおしを孕んだものなのかもしれない。性懲りもなく。

日記1034

 8月17日(日) 午前中、スーパーで買い物。急にちいさな女の子がダブルピースしながら「カニ!カニ!」と迫ってきた。やや動揺しながらも、とっさにカートから片手を離し、こちらもピースで「カニカニ」と返す。「カニ!カニ!」「カニカニ」と、すれ違いざま2往復した。近くにいた親御さんから「すいません」と謝られ、ほほえんで会釈。そんなひとコマがあった。 ひさしぶりに人間との会話が成立した気がする。カニカニ言い合うだけのやりとり。これぐらいが自分の身の丈にはちょうどいい。カニカニ以上の話は高度すぎてなにを言っているのかわからない。このごろほんとうに、人々がなにを言っているのか、日増しにわからなくなりつつある。 しかし、あの子の「カニ!カニ!」は完璧に通じた。なんというか、魂がこもっていた。こちらも気圧されるように「カニカニ」で応じた。すると、うれしそうにまた「カニ!カニ!」と全身を使い、大声でこたえてくれた。こんどは喜んでこちらも「カニカニ」とやわらかく伝えた。心から通じ合えた気がする。 人との会話なんて鳴き声みたいなものでじゅうぶんではないかと、本気で思ってしまう。「ほえー」とか「にゃー」とかで、じつは日常会話の8割くらいは代替可能なのではないか。なにより、そんなに意味のあることを言わないほうが、平和である。いや、鳴き声ばかり発するおっさんはさすがに気持ち悪いか……。長嶋茂雄みたいな天才っぽい人なら、オノマトペ多めでも許されそうではある。あるいは不思議ちゃん的な雰囲気の人。 そういえば、ときどき不思議ちゃんみたいな扱いを受ける。じっさい、わたしの日常会話は6割くらい虚ろな表情で「ほえー」とか言ってるだけだ。それで事足りるのであればじゅうぶん。余計な話はしないに限る。 余計な話をあえてするなら、人間みんな不思議ちゃんである。直立二足歩行でヨタヨタ歩き始めるあたりから、だいぶ不思議である。「ことばを話す」なんてのは、不思議の最たるもの。鳴き声を駆使するほうが自然界では遥かにふつうなのだから。「カニカニ」の応酬で心を通わせるほうが生物としてはスタンダードに決まっている。こちらからすれば、めんどくさい会話に明け暮れる人々ほど奇異にうつる。 と、こんなふうに無駄な抗弁を始めると争いの火種になってしまう。「お前は人間ではないのか?」などと突っ込まれそう。「お前の混ぜっ返しのほうが...

日記1033

6月3日に高円寺の Oriental Force という場所でライブがありました。わたしは出演者のひとりとして参加。このブログでは音楽活動についてほとんど書いていませんが、じつはときどき尻からヒップホップを捻り出す珍獣という裏設定があります。いま8月7日なので、もう2ヵ月も前のことです。遅まきながら、関わってくださったすべての方々に感謝いたします。 しょうじき、やれるか不安でした。でもなんとかやれることはやれたかな。反省点は多いです。言い訳はしません。ただ、しばらく ネコニスズの「歌詞が飛んだよ」 を見て癒されていました。精進します。 ほとんど隠者みたいな私生活との差が激しくて、ライブ後はしばらく放心状態でした。ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』の主人公(無口なトイレ清掃員のおじさん)が急にラッパーとして人前に立つところを想像してみてください。この比喩に誇張はなく、だいぶそのまんまだと思います。 矛盾するようですが、自分の制作のモチベーションはすべて、「人々から遠ざかりたい」という願望のもとにあります。無意識にもそうなってしまう。誰にも、なんにも関係ないことをやっていたい。「関わりのなさ」だけが美しいのかもしれない。そんなことを思います。というか、もともとわたしたちはなんの関係もない。 数日前、岸本佐知子のエッセイ集『わからない』(白水社)を読んでいて、帯にも採用されている幼い頃のエピソードが示唆的だと勝手に感じました。  “お人形遊びなんかやりたくない。でもそのことは、なぜだか絶対に言っちゃいけないような気がする。ばれちゃうから。ばれるって何が? わからない。地球人のふりをして生きてる宇宙人も、こんな気持ちかもしれない。”(p.8) ここで「ばれちゃう」ものとは何か。「関係のなさ」ではないかと思います。それを言ったら、地球を追われる。すべてがおしまいになるような、根源的な関係のなさです。ふとしたところにひらけている虚無の穴、というか。フィクションの破れ目。わからない穴。 ふだんは、あんまりばれちゃうと生きていけないから、がんばって人々と関係があるかのようにふるまわないといけません。集団の成員として共有可能な物語のなかで、なんかわかったようなふりをしていないと。出来合いのフィクションがなければ人間関係は維持できないのです。そうやってばれないよ...