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日記1031 思いつきメモ

 思いつきメモ。 幻覚剤が精神疾患に効くんじゃないか? という話があって、めっちゃ大雑把にいえば「幻覚剤で文脈を揺さぶる」的な説明(仮説)がなされていた。デヴィッド・ナット『幻覚剤と精神医学の最前線』(草思社)、あとマイケル・ポーランのいくつかの本を参照したうえでの理解。 なんか斎藤環『イルカと否定神学』(医学書院)に書かれていたオープンダイアローグの効果(これも仮説ではあるが)と似ているように思った。 方法としては、かたや幻覚剤(超ケミカル!)、かたや対話(超ヘルシー!)とまったく異なる。しかし機序の説明が似ている。素人の臆見に過ぎないが、この相似は非常に興味深く思う。 もしかしたら、すでに誰か指摘しているのかもしれない。あるいは、こんな(突拍子もない)つながりを見いだす人間は自分くらいなのかもしれない。野蛮な奴が野蛮な発想をしている、と思ってもらってかまわない。同じ分野とはいえ、まるで毛色のちがう本を並行的に手にする好奇心がすでに、野蛮なもんだろう。 以下『幻覚剤と精神医学の最前線』からすこし引用する。  “スモールワールド性を持つ脳のローカル接続は、すべての事前知識に依存している。私たちが乳幼児期から培ってきた、ありとあらゆる状況に対する事前知識である。これは、日常生活を送るうえで、極めて優れた仕組みとなっている。エネルギー効率も非常に高い。私たちの脳は、既知のいかなるコンピュータに比べても、10倍の効率性を誇る。  その一方で、脳のこの効率性は、柔軟性の欠如や創造性の喪失といった、いくらかの代償をともなう。そして、この効率的に働くネットワークのうち自尊心や人生に対する姿勢を決定するものが不適応だとしたら、精神疾患を引き起こす可能性がある。  サイロシビンの影響下では、そして後の研究で示されたようにLSD影響下でも、脳内のつながりが図3bのように変化する。より多くの脳領域の間に、新たなつながりが大量に生まれていることがわかるだろう。「スモールワールド」が、「ラージワールド」ネットワークになるのだ。いつものネットワーク内でのコミュニケーションが断ち切られ、ネットワーク間の相互作用が増幅される。手かせが外れた脳はすっかり自由になり、幼児期以来なったことがない状態に戻るのだ。  このことは、幻覚剤を摂取した人々が描写する、意識の広がりや宇宙とのつながりといっ...
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日記1030

自己は唯一の人間であると同時に、たくさんいる人間のなかのひとりでもある。言い換えれば、連続的であると同時に離散的でもある。アナログであり、デジタルでもある。こう変換すると、 日記1028 でアキレスと亀のパラドックスにまでつなげたのも、あながちトンチンカンな話ではなくなるだろう。連続系と離散系とでは記述の方法が異なるが、わたしたちはその両方を兼ね備えながら存在している。 と、年明けにメモをつけていた。自分で書いたことが自分でもわからず、あとあと考えてしまう。とりあえず散らかしておいて、あとから片付けるように自分で自分に宿題を課しているのかもしれない。そして片付け中にまた散らかる無間地獄……。 わたしはわたしにとって、ひとつづきのわたしであるっぽい感じのヤツだが、他者にとっては途切れ途切れに現れる、時と場合によっていたりいなかったりするヤツである。つまり、わたしは連続的であり離散的でもある。すべての他者は離散的である。他者から見た自己も離散的である。途切れ途切れである、その離散性の隙間を縫いつける知性が “想像力” と呼ばれるのだと思う。多くの人が、ほとんどそれと知らずに発揮している、“見えなさ” を補い、連続性を装うふしぎな力。 霊長類学者の山極寿一は、類人猿と人間を画する違いとして不在への許容度を挙げている。類人猿の社会では仲間の不在は許容されない/されづらい、らしい。連続性に重きを置く、といってもいい。不在はほとんど死を意味するのだと。対して、人間社会は不在への許容度が比べものにならないほど高い。 たぶん、人間でも幼児は成人より連続的な在り方をしている。体と体の距離が近いし、親近者が離れると泣いてしまう。きっと幼児にとって、そこにいないものは端的にいない。それはとてもこわい。想像すると、わたし(30代男性)でも泣いちゃう。「いないものはいない」という、あまりに澄んだ認識。切迫した、ある意味では “正しい” 見方でもある。「目の前にいなくても、どこかにいる」といった、連続性と離散性のあいだをつなぐ想像的な余白は安心につながるが、そこには “いい加減さ” がある。人はおとなになるにつれていい加減な距離のつけ方を覚え始める。 「いる/いない」に関連して、電車のなかでよく思うことがある。へんな言い回しになるが、「電車のなかで電車のなかにいる人は少ない」ということ。 東京...

日記1029

いわゆる「傾聴」にはなんやかんやメソッドがあるけれど、むずかしいことではなく、じつは多くの人が日常的に実践していることなんではなかろうか。しかし、それが「傾聴」と呼ばれることはない。それはなにか。フィクションの受容だ。 たとえばアニメのポケモンを見るに際し、「あんなモンスター存在しねーだろ」といちいちケチをつける人間はたぶんいないだろう。カプセルから“ピカチュウ”なる黄色い小動物が出現し、「ピッカー!!」などの奇声を発しながら電撃を放つ、現実に展開したら恐ろしすぎる光景も「そういうもの」として受容できる。めっちゃ空想的だけど、「空想だ」と揶揄する人もいない。それはそれ、として楽しめる。つまり、リアリティが混線しない。 ここに傾聴的な態度があると、わたしは思う。 一方でこれが目の前の他者となると、リアリティの混線が起こる。自己の主観的な基準を手放すことなく、ある程度の同質性を期待してしまう。自分とはまるでちがう身体をもって、まるでちがうものに触れ、まるでちがうことを考え、まるでちがう時間を生きているあなたは、こちらからすれば及びもつかないひとつの虚構のようなものだ。実在しない、という意味ではない。あなたについて、わたしは想像することしかできない。容姿、ふるまい、コミュニケーションなどの断片をもとに、人物像を思い描くだけである。その意味において、虚構的だと感じる。わたしもまた同様に、あなたからすれば想像の産物だろう。わたしの目の位置から同時に世界を眺めることは、かなわないのだから。どんなに近づいていようとも、重なることはありえない。 人間の“現実”は想像的なものに多くを負っている。キリストも仏陀もムハンマドも、いまとなっては想像するしかない存在だ。それでもなお“現実”に影響を与えている。「リアリティライン」はフィクションの分析に使われることばだが、“現実”においても異なるリアリティラインが幾重にも錯綜しているようである。わたしにはそう思えてならない。 不信の停止(willing suspension of disbelief) という概念がある。イギリスの詩人・哲学者、サミュエル・テイラー・コールリッジが確立したとされる。あるいは、雑に並置してしまうと 好意の原則( principle of charity ) も似たような話かもしれない。なにか「他なるもの」を解するに...

日記1028 『イルカと否定神学』

斎藤環『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)を読み終えた。オープンダイアローグという対話による心理療法の思想的概説書、みたいなもの。この本について、あるいはこの本から連想したアレコレについて、適当に書いてみたい。 共通感覚(common sense)が「回復」の要かなとわたしは思っている。ようするに、特異化し過ぎ/され過ぎた部分をどんなかたちであろうが自他ともにフォーマライズする/される/できるようになることが「回復」と呼ばれるのだろう、と。ごく大雑把に、ごく単純に……。「ひらかれた対話」がそれに資することは想像に難くない。 自分なりの観点から読み換えるなら、『イルカと否定神学』で詳細に検討されているベイトソンのターム、「コンテクスト(文脈)」が共通感覚の構築過程に寄与するのだと思う。「ふつう」などの漠たる概念は多分に文脈依存的だろう。 たとえば、アルコール依存症は広い社会の文脈では特異化されるが、依存症者の集まるピアカウンセリングの場ではそれが「ふつう(フォーマルな肩書き)」として機能する。そうした場に身をおくことで、当事者はそれぞれのことばの動因を得ることができる。そこで醸成されたことばの運動力が徐々に「回復(自己のフォーマライズ、主体化と言ってもいい)」への足がかりとなっていく。 場の文脈や、個々の人間が持ち寄る文脈はことばを賦活するうえで非常に重要な鍵となる。ベイトソンが提唱した「コンテクスト」には複雑な含意があるようだけれど、ここではだいたい「文脈」でいいことにしておく。が、いちおう『イルカと否定神学』から説明を引用する。「複雑な含意」の雰囲気だけお伝えしたい。 “ちょっと回り道になりますが、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソン(1904 - 80年)が提唱した重要な概念に「コンテクスト」があります。ベイトソンによれば、刺激のコンテクストとは「 基礎的信号を分類するメタメッセージ 」ということになります。  ちなみにベイトソンは「刺激のコンテクストのコンテクスト」について「メタメッセージを分類するメタ・メタメッセージ」といっています。ちょっとわかりにくいですが、ベイトソンがあげている例を見てみましょう。  芝居のなかで殺人事件が起こりますが、だれも警察に通報しません。なぜでしょうか。劇中の人間関係のコンテクストは、さらに「芝居」...

日記1027

十月十四日(月) 新横浜駅で quoさん と待ち合わせ。二回目の散歩。よく晴れた心地よい秋の日和。夏の成分もやや混入しているぐらいのぽかぽか陽気だった。 地元の人しか使わないような裏口(篠原口)にわたしが降りたせいで、落ち合うまでに右往左往してだいぶお待たせしてしまう。quoさんは新横浜らしい表側の場所におられた。DMで地図の画像と「丸い空中これる?」という謎のメッセージを受けとり、よくわからないがとりあえず当たりをつけてそのへんまで向かうことに。 ちょこちょこ連絡をとりながらquoさんを探していると、すれちがう人々が全員quoさんに見えてきて軽いトランス状態に陥る。「丸い空中」の理解もおぼつかず、しまいにはぜんぜん知らない人に挨拶してしまう始末。脳内では山崎まさよしの「One more time, one more chance」が流れつづけていた。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。焦れば焦るほど、どこにでもいくらでもquoさんがいるような気がしてしまう。見るものすべてにquoさんが宿っている……。 おまけに便意をもよおしてきたため、いちど冷静になろうと駅ビルのトイレを借りた。それが功を奏してか、大便中に急にひらめき「丸い空中」のミステリーが完全解決。歩道橋のこれや!  というか、DMをよく読めば最初からquoさんは駅前のデカい歩道橋のことを言っており、迷うほうがどうかしていたのだ。 すぐさま「謎はすべて解けた」「真実はいつもひとつ」と名探偵気取りの返信を送り、山崎まさよしの妄念からも解放され、早歩きで意識レベルをぐんぐん上げながら「丸い空中」を目指す。ようやく落ち合えたころにはすっかり夜になっていた。というのはウソで、数十分はお待たせしてしまったと思う。申し訳ない。 「quoさん探してたら、道行く人々が全員quoさんに見えてくるんですよ」と話すと、「そんなスタンド攻撃みたいな……」「顔覚えてないってこと?」などおっしゃっていたように思う。安堵感もあったせいか、失礼を働いておきながら大笑いしてしまった。たしかにスタンド攻撃を受けていた可能性は否めない。いや、人のせいにしてはいけない。 前回同様、写真を撮りながらの散歩。わたしはいつもひとりで無闇に撮りつづけている。「ひとり」という状態は文字通り「無」であり「闇」である。なんにもわか...

日記1026

なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれているような感覚を、飴屋法水『たんぱく質』(palmbooks)から受け取る。生き物はみんなたぶん、なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれている。ごくわずかな、わかりそうな部分を後生大事に抱えてなんとかやっている。そのちいさな欠片だけで、なにもかもわかったような気になってしまう人もいる。ときに、わたしもそう。 生き物としての人間の話ができる人はあまりいない。生き物としての身も蓋もないさだめ、身も蓋もない卑小さをいつも小脇に抱えているような人。名前のない、未分化なただの生き物として茫漠とたたずむ人。飴屋氏はそんな人に該当するかもしれない。 “私は私に、閉じ込められている 私という不自由に、閉じ込められて生きている、しかし生き物としての体の中には、私が生きたかもしれない、別の誰かが眠っている、私が私になる前の、まだ何者でもなかった生き物のことを、私の体は覚えている、それは私の中で眠り続けている、生き物は皆、それを抱えながら生きている、私が話したいのはこのことだ、誰しもが、別のなにかでも、ありえたのだ ありえた自由を抱えたままで、私は、私の不自由を生きていく” 『たんぱく質』(p.95) 9月の最終日曜日、編集者の郡淳一郎さんとダダイストの山本桜子さんのトークイベントへ出向いた(@浅草橋天才算数塾)。『たんぱく質』を読みながら、イベント終了後の交流会で山本さんと交わした会話の質感を思い出していた。似ている。何者でもない生き物としての人間について話していたと思う。犬猫やゴキブリや芋虫や爬虫類の話もした。原始人の話もした。人間をふくめた生き物たちがなんの序列もなく飛び交う会話。 わたしが水を向けたところもあるけれど、それは「この人ならできる」と無意識に感じたからだろう。ふいに「人間って殴ったら死ぬじゃないですか」などと口走っていた記憶がある。自分に驚いた。およそ初対面の人とするような水準の話ではない。ふつうに考えたら不躾にもほどがある。しかし、失礼には当たらない感触があった。むしろこの水準が礼に適うのだと。 単純に殴ったら死ぬ存在としての人間の話。「田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死んでしまう」みたいな話。「私」なんかどうでもいい、だれであろうがおなじ、乱暴な話。安いヒューマニズムから遠く離れた原野の精神性とお話ができた...

日記1025

忘れかけていた。最低でも月に一度は書こう。ときどきメールをくれる友人が思い出させてくれる。「なんでもいいから書いてくれ」というメタメッセージがそこには含まれている気がして、それがなくてはなにもかも忘れてしまいそうだった。 夏もとっくに峠を越えて、ここ数日はだいぶ涼しい。9月も終盤に入り、ようやく秋らしい日和。 以前はイベントへ赴くたび、なにごとかをここに記していた気がする。このところあれこれ見聞きしても、人に会っても、ほとんどなにも考えず、ぼーっと過ごすようになってしまった。不義理を働いているかも、という思いと、それはそれで悪くはないか、という思い、両方ある。ひたすらに、ぼんやり出来事を眺めている。イカみたいに。 “イカは信じられないほどに複雑な眼球を持っていて、そこから膨大なビット数の情報を取り入れている。ところがその目に比して、脳の構造のほうはあまりにも原始的で単純にできているので、とてもそれだけの情報量を処理できる能力はない。イカの群れは悠然と大洋を泳ぎながら、すばらしく高性能なカメラで地球の光景の観察を続けているが、それを呆然と見続けるだけで、情報処理を行わない。” 中沢 新一, 波多野 一郎『イカの哲学』(集英社新書) tumblr でぐるぐる回覧されつづけている引用。この部分だけ何度も読んだが、元の本には当たっていない。これがほんとうかどうかもわからない。ほんとうのところは、イカにしかわからない。でもこの通りだとするなら、ことしの夏はイカのような状態で日々を過ごしていた。ただ呆然と漂う。 カメラを持ってあちこち行くだけ。 だいたいひとり。 2023年末あたりからか…… twitter で写真を投稿している人とぽつぽつ繋がるようになった。それまでは孤立しており「無言で写真だけを上げつづけているアカウントなんて、あまりないだろう」と思いこんでいた。すこし探しづらいだけで、蓋をあけてみればたくさんあった。蓋があいていないだけだった。ことばまみれのタイムラインが、たちまち画像まみれに。2024年5月あたりから、わたしのアカウントをフォローしてくださる方も謎に増えた。 とはいえ実際的なつながりはほとんどなく、孤立していることに変わりはない。そんななか、フォロワー増加のきっかけをつくってくれた twitter アカウントのひとつだと思う、quo さんと先日リアルでお...