7月27(月) 立ち寄ったラーメン屋で、aikoの曲が流れていた。「きみにいいことがあるように」と。それをとにかく連呼する。あまりの連呼に反発心が芽生え、内心で「わたしにいいことがあるように」と対抗を試みるもむなしい。ぜんぜんかなわない。というより、疑わしくなる。「ワシにいいことなんかあるかいボケェ!」と瞬発的にツッコミを入れてしまう。自分のことは良くも悪くも、わかったつもりでいるせいだろう。人生は苦行である。と、わかったつもりでいる。 でも、「きみ」のことならわからない。そういうことか。ラーメンをすすりながら勝手に納得していた。きみにはいいことがあるのかもしれない。素直にわからないから、素直にそう思える。もちろん悪いこともありうるけれど、いいことがあれば、なんたって「いいこと」なのだから、そっちのほうが気分がいい。祈るなら、「きみにいいことがあるように」。無責任で素直な、わからなさの表明として。きっとそうなる。自分の「いいこと」は素直に祈れない。いやなにより、aikoの歌に抗ってはいけなかった。 などと、めんどくさいことをぐるぐる考えながら追加のミニチャーハンを食べていた。そうそう。わかったつもりでいる自分のことも、他人からすればわからない。この非対称性が、ことばを投げ込む入り口になる。人生って、あんがい苦行だけではないかもよ? 誰かは言うだろう。自分の握りしめていた「わかったつもり」が揺さぶられる。再考を促され、わからなくなってしまう。それはすこしこわい。でも、会話のたのしみもそこにある。他者は自分をわからないものへと育ててくれる。 すべてがわかりきっていれば、祈りの余白は生まれない。会話の余地もない。「わからない」という不確実な空白があることによって、ことばが賦活する。だから「わかんないなー」と感じたら、それはたいせつに記録したほうがいい。どんなにちいさな疑問も殺さず。ことばのために。 わたしには、この世のほとんどすべてがわからない。率直に言ってアホである。自分の過去の記憶でさえ、あやふやな夢のようで不定形にそこらじゅうをたゆたい、いまも絶えずこぼれている。きっと、こぼれてしまうから人と話ができる。あるいは祈ることも。きみにいいことがあるように。aikoが言ってた。 「わたしにいいことがあるように」と、素直に言...