なにが禁なのかわからなかった「禁」。かぎりなく書道にちかい。小学校の教室のうしろに「夢」などと貼られているアレを連想する。機能的でないものは芸術にちかづく。超芸術トマソンなんかは、だいたいそういう話ではないか。無用の長物。目的がなくなったあとに、なお残るものたち。 この「禁」は結果として、なにかを禁じるための「禁」ではなく、ただ書かれた純粋な「禁」に見える。略して純禁。文字のかたちだけが屹立している。なにを禁じているのかは、書いた人だけがわかる。ひとりだけにしかわからない。 「かけがえのないものは、まちがっている」と前に書いた。その話ともつうじるかな。なぜだか誤りや、ゴミみたいな無用のものに昔から関心がわく。始まる前のものや、終わったあとに残るもの。自分のことを、「もう終わった人間」と思っているふしがある。逆に「まだ始まっていない」としてもいい。どっちでも……。 一日のうちでもっとも居心地のよい時間帯は、午前3時か4時くらい。終わったあとであり、始まる前でもあるとき。一日単位に縮約するとわかりやすい。とても静かなとき。心の在り処。「静けさとは、いつも膝まずいているものです」とヤニス・リッツォスの詩(中井久夫訳)にあった。未明の静けさに倣い、ただ膝まずいていたい気持ちがある。 未明は、兆候的な時間といえるかもしれない。詩句が馴染みやすい。「詩とは言語の兆候的側面を前面に出した使用であり、散文は言語の図式的側面が表になった用法である」と中井久夫は『現代ギリシャ詩選』(みすず書房)の「まえがき」に書いている。 この定義は、T・S・エリオットの「イタリア語があまり分からなかったころのほうがダンテがよく分かった」という話に触れて開陳される。わからなかったころのほうがよくわかった。そういう感覚がたぶん人には備わっている。誰にでも。 兆候性への敏感さとは、言語の喚起する予感や余韻、あるいは重層的な意味、辺縁的な意味、さらに寄せては返す連想などなどへの感覚である。知りそめた外国語の語や響きには、そのあらゆる誤解や未熟な理解と並んで、あるいは重ね合わせに、きらめく兆候性がはらまれている。pp.3-4 誤解や未熟さとともにある、きらめく兆候性。哲学者の古田徹也氏は、こどもの未熟なことばにやはり「きらめき」を感覚していた( 日記884 )。まだわからない時分のきらめき。いくつ...