人はいかにして何かと出会うのか。遭遇するのか。ひいては「意味がわかる」とはどういうことか。自分の抱く問いはすべて、このあたりに収斂していく。と、いまさらながら気がつく。なにを見てもそのことを考えている。おなじひとつのこと。 とくに、写真という媒体にはそれが顕著にあらわれるのではないか。たとえば、わたしのinstagramを見てなにがしかピンとくる人とこない人がいる。出会えるか出会えないかがわりと鮮明に分かれる。この差は、各人が身にまとう意味世界のちがいだと思う。 そこにたどり着くまでの経緯によっても「出会える/出会えない」は変わる。おなじ本を読んでも、時期によって「わかる/わからない」が変化する。おなじ道を通っても、風景が見えるとき/見えないときがある。おなじ人と話しても、盛り上がるとき/退屈なときがある。あるいは音楽を聴いても、映画を観ても……これはあらゆることに言える。 そのとき、それぞれがそれぞれにとってどのような意味をまとっているのか。意味の観測点は逐一ちがう。ひとことで言うと、「視差」に興味があるのかもしれない。パララックス。出会いとは、異なる観測点の交わり。時間も空間も相異なるものがふと結びつき、世界が立体的に立ち上がる。そのとき人は、「出会った」と感じる。「わかる」と思う。ひとつの像がリアリティをともなって結実する。偶然とも必然とも呼びうるような、その結節点をふしぎに思う。 つなぎめが気になる。さかのぼっても、おなじようにつながるのだろうか。高校生のころ、数学の教師に「小学生からやり直せ」と罵倒されたことをたまに思い出す。いまなら、確信をもってこう反論するだろう。「小学生は賢すぎます。わたしは赤ん坊からやり直したいんです!」と。いや、それさえ中途半端だ。できるなら、原始人からやり直したい。まったくなんにもないところから。生きているというこの事態と出会い直してみたい。そんな願望がある。はじまりは、どんなふうだったのだろう。 しじみ。 3月29日(火) 帰り道、書店で2022年4月号のユリイカをすこし立ち読み。中原中也賞の選評が載っていた。高橋源一郎の文章にうっかり感動する。中井久夫の「きらめく兆候性」を思い出す。わたしは「きらめく兆候性」ということばが好きすぎる。 選考会では、蜆シモーヌさんの『なんかでてるとても...