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日記604

図書館の本を読まずに返す。なんかいそがしくて読む時間がない。「いそがしい」は、かんたんで便利なことばです。万能ネギくらいの便利さ。どんなことばも単純化の産物です。ことば(概念)に頼りすぎると単純になる。個別にものを見すぎると細かく複雑になる。たとえば「空が青い」。単にそれだけの瞬間なんてない。この空はどう青かったか。いかに歩き、見上げたか。何月何日の何時だったか、気温はどのくらい?となりには誰がいた?赤信号で立ち止まって、手持ち無沙汰に撮った写真だった。高架の上にたまたま空があって、それが青かった。やがて車の道行きが止み、信号の色が変わった。歩きながら「なんか景色がきれいに見える」「それはね、夏の魔法ですよ」と会話を交わして、笑った。すこし時間を遡る。陸上自衛隊目黒駐屯地の付近でなにやら怒り狂っているおじさんがいて、横を通り過ぎた。歩きながら友人が「さいきん読んでいる本は?」と尋ねてきたタイミングで、おじさんの激しい怒鳴り声が響いて会話の流れが分岐した。本については伏せて、うしろを指し「すげーハッスルしてんね」と言った。「ラッパーになればいいのに」とことばが流れた。しばらくしてまた本のことを尋ねられ、ミランダ・ジュライの新刊が出たから過去の作品を図書館で借りた、とこたえた。その本をきょう、読み終える前に返却した。 くだらないことを書くようだけれど、過ぎた時間はもう二度とこない。ほんとうにくだらない。でもこれを体の芯から自覚できることはない。やろうとするが、気が狂いそうになる。足がすくむ。比喩ではなく立っていられなくなる。過去も未来も死と密通しているから、きのうのこと、あしたがくることも、忘れていまだけがあればいい。 忘れたい。もしかしたら、わたしは部分的に記憶力がよいのかもしれない。変な細かいことを、ずっとおぼえている。ごく一部。なんの変哲もない会話、歩いた情景がそのまま映像として浮かぶ。 かもめブックスからの帰り「友人の名前がチンコだったとしても、わたしは馬鹿にせずちゃんと呼ぶから」と空いた電車の優先席に座って話した場面。わたしがカバンにつけているチンアナゴのピンバッジから飛んだ会話。席は3人がけで、じぶんは真ん中にいた。左側に友人。右にはお婆さんが途中から座ってきた。向かいに本を読むメガネで帽子のおじさんと、スマホをいじる太ったおじさんがいた。...

日記603

ブラジル先住民の椅子を観に行きました。むしょうにブラジル先住民の椅子が観たい気分だったので。そういうとき、よくありますよね。あるあるネタです。あ~ブラジル先住民の椅子が観たくてむしゃくしゃするぜ~って胸をかきむしる瞬間。ひどい場合、奇声を発し血反吐を撒き散らして這いずり回るハメに。そうなる前に行きました。予防的措置です。自己管理です。 友人とふたり。目黒駅ちかくの東京都庭園美術館。9月17日(月)まで開催しています。おもしろい。「おもしろいなーおもしろいなー」とずっと思って、声にも出していた気がします。なにがどうおもしろいのか、あまりうまく言えない。「この感じ」としか言いようがない。写真でおわかりいただけるかわかりませんがこの感じです。 ああ、おもしろい……。この椅子の素敵な味と、庭園美術館(旧朝香宮邸)内の貴族的なマッチングがあいまっての相乗効果でおもしろのハーモニーが空間じゅうに鳴り響く。会場まるごとおもしろい。 「野生動物と想像力」という副題の展示。椅子として、造形を単純化したうえでの動物。そうして残ったこのかたち。椅子としての平らかさは欠かせない。座るための椅子なのだから。椅子という前提があってこそ、この造形の妙が生まれるのか。なんか撫でたくなる。しかしお触りは厳禁。つやつやと平らだった。 やはり平らだと座りたくもなる。そう、椅子なのだから。椅子は“座れ”と人心をそそのかし、惑わすもの。だけどむろんお座りも厳禁。部族のシャーマンが座る椅子だそうです。ああ座りたい。シャーマンになれば座れる。ブラジルの先住民に溶け込んで、かつシャーマニックな感受性を身につければ。あるいはカネを積んで買い取れば座れる。資本主義生まれ、資本主義育ち。 すべて座れるようにできている。あたりまえか。 なんとも平らかなたたずまいでした。 平らだ。「平ら」としか言えていません。 ことばも自ずと平坦になる。 顔がいい。上目遣いでこっちをみるジャガー。愛らしい。思わずムツゴロウさんのようにしゃぶりつきたくなる。しかしおしゃぶりも厳禁である。我慢だ。白い目の部分は貝殻を嵌めているそう。 さいごに制作工程の映像も見ることができます。ひとつの部族だけではなく、広くブラジル各地のさまざまな部族がこうした椅子をつくっている。こんかい展示され...

日記602

なにかがたくさんあったほうがいい気がしていて、なにひとつなくていい気もする。時間は消えても場所はあると、たしかスーザン・ソンタグが書いていた。時間なんかないんだ。身を置いておける場所だけがある。 「98%の確率でお金がもらえるが、2%で死ぬボタン」がネットに落ちていた。ただボタンを押すゲームだ。ネーミングがすべてだった。ことばをおもしろがる。じっさいに、お金がもらえることはない。これが原因で死ぬこともない。押してみると、1回目で死んだ。運がいいと思う。「大凶はめずらしいからむしろ幸運」みたいなロジックで。 だけど、ちょっと不吉な感じもする。ことばってふしぎです。ひとりで思わず「まじか」とリアクションをしてしまう。言霊信仰みたいな呪術意識のごときものがある。いや、信じていないから押せちゃうってところもあります。戯れに。まだ死んでいないよ。戯れも信仰のかたちといえばそう。戯れることができるほどにはことばに敬虔。半信半疑。こいつがいちばん健康的です。信じ切るとそんなボタンは怖くて押せないし、信が皆無であれば歯牙にもかけないだろう。遊べる程度に信じる。 暑い日がつづきます。夕立がくればいいと思う。 この夏は、ものんくるの「夕立」をよく聴きます。 9月にあたらしいアルバムが出るそう。 あたたかい雨が とつぜん降りだし 夏の銀河系の 音を奪った 抱きしめたのは さいごのお別れ この雨過ぎたら わたしは行くから 記憶は美しく雨に溶けだしてく これを聴きながらふとスチュアート・ダイベックの小説『シカゴ育ち』(白水社)にある一篇を思い出します。一過性の夕立かと思われた雨が降り止まずそのまま夜まで流れつづければシカゴへとつながる。ひとしきり気取っている。気取っていれば涼しいから、気分がいいから。気休めです。暑苦しく脂ぎった顔で息を切らせてブヒブヒ耐えるよりはいいかと。柴田元幸さんの翻訳。  キスが都市を横断する。それはガラスの路面電車に乗って進んでいく。子供のころ塗り込められてしまった線路の幽霊に沿って、電車は青い電気の火花をまき散らしていく。彼女が母親と都心に出かけるときに使った線路。  キスが都市を横断し、ロビーの回転ドアを抜けて雨の夜に出る。黒いガラスの並ぶ大通りでタクシーを拾い、赤信号を突破して、ワイパーがつく...

日記601

蜂。後姿。背中で語る。いいお尻。 むしろお尻で語る。ケツ話術だ。 まるっこくて産毛が生えて、しましま。 いいお尻です。 顔出しNG。ケツ出しOK。 フル主夫の生活が終わりを迎えました。母の帰還。家庭内で家事労働をつとめる人間がひとり減るだけでもたいへんです。家事をいっさいしない父にイライラすることもありました。わたしを家に置いてくれていることには感謝しかありませんが、なぜそこまでなにもしないのか……。お菓子のゴミぐらい片付けてよ(生々しい愚痴)。こういう感情も含めた生活の機微を身をもって知っておくと、のちのちよいのではないかと思います。 「三十路手前で実家ぐらし」というと甘えてるとか、すねかじりとか、甲斐性なしとか、そういう印象をもたれがちですが、ひとり暮らしよりも気は重いです確実に。円満にやるためにはそれなりに身も削る。自己肯定感を下げない胆力も必要。「親と子」である前に人間と人間。お金の部分でらく、くらいなもので。あちらを立てればこちらが立たず、なところは何にでもあります。一長一短としか言えない。どちらがラクで良いのかは個人の適性による。人間と暮らしていれば、ひとと共にあらねばならぬことをいかんともしがたく突きつけられる。そこから思考が始まる。 両親と祖母の老いを日々まのあたりにすることも少し切ない。祖母は日付を忘れないようにと、毎朝カレンダーにバツ印をつけている。バツの並ぶそのカレンダーがおもしろくて、なんだか切ない。「ありがとう」ときみに言われると、なんだか切ない。過去にバツでケリをつける日々、サバイバーって感じだ。伊達に戦前から生きちゃねえ。 生活の内情は一般化できない。大味な認識で「甘え」だとかひとくちに言えてしまう方は幸福です。うらやましい。なんにもみないのね。その調子でお幸せに、と返すほかない。あなたはあなたの生活を守って。がんばれよ! 外食をしてもじぶんの食器は、ある程度まとめてから席を立つ癖がいつからかつきました。テーブルと、ついでに夏はコップの側面につく水滴もよく拭く。外食時くらいなにもしたくない派の人間からは嫌がられるかもしれない。そこは柔軟に対応します。場の雰囲気に水をさしてまですることでもない。 店員さんも機械ではないのでふつうに接する。いや機械も進化がいちじるしい。ペッパーくんは無性にジャーマン・ス...

日記600

「知らないひとについていかない」とよく学校で教育されました。お盆に福岡へ行ったとき、小学1年生の甥の机の上にもそんなプリントがあった。こどもの安全のためには必要な呼びかけなのかもしれない。こどもは、油断するとすぐにいなくなるから。七つまでは神のうち。 成人のわたしは「知らないひと」がよくわかりません。親でも友人でも、みんな知らないといえば知らない。いつなにをしでかすかわからない。自由の余白を織り込んで接する。いまひとつにそもそも「そこにいる」という状態がすんなり理解できていない。じぶんも含めてなんでいるの?存在論的な疑念が抜けない。安心して他者に身を預ける時間もあまりない。正確には「知っている部分もある」ぐらいの関係です。だれのすべても知らない。土台から不明。地球ごと宇宙に浮かんでいる。足元を掘り下げればなにもない。仮の地面に立っている。 「知らない音楽は聴かない」とおっしゃる方がいて、なんじゃそりゃとも思う。「知らない」を遠ざけてしまったら、わたしは死にたくなるほど退屈です。というかそれって、あたらしいものに触れるための認識の枠組みがすでに死んでいる。時間配分の処世として、いらないところは見限りシンプルに決め打ちしておくのだろう。でもそれをし過ぎると、どんどん「話の通じないひと」になってしまうと思う。頑固ね。それでいい場合もあるか。 「知っている/知らない」の配分をできるだけ正確に見積もっておきたい。ひとりの人間に対しても、知っているところ、知らないところ、両方ある。どんな関係でも。目に見える部分がすべてなわけがない。そのうえで「知っている」という思い込みに依存せず「知らない」を楽しみたい。このひとにはこんな側面もあるのか!と。良きにつけ悪しきにつけ。 きのう、ひとに「もしじぶんが浮気されたらどうする?」と聞かれて「してくれた浮気の相手とも仲良くなって、みんなで楽しく食事をしたい」とアンサーしました。ままごとかよ。わたしの世界観は、どこまでも平和です。これこそが真の平和ボケである。むせかえるほどの博愛……。冗談じゃなく、本気なんだから我ながらあきれかえる。「お前は天使なのか悪魔なのか」と言われる。 仲良くし合える人間ばかりでもないから、それもわきまえていたく思う。絵に描いたような理想を言っているだけでした。ただ、じぶんの目の前にいるひとが...

日記599

3回目の歯医者さん。また歯垢が赤く染まるやつを歯に塗ったくられて……。「前回より磨けています、お上手です」とほめられました。お上手ですってよ。こちとら歯を磨きつづけて四半世紀以上のベテランやぞ、子役あがりやぞ、英才教育やぞ、と言いたくなりましたがみなさんこどもの頃に歯磨きを習うのでした。みなさん子役あがりの英才教育でした。思い上がってはいけません。まいにち漫然と磨いているだけで専門知識のかけらもない、むしろこれは恥ずかしいことかもしれません。 赤いやつを塗られる前にまいかい、くちびるにワセリンを塗られてぷるぷるのつやつやになってしまいます。そんなにくちびるをぷるぷるにした経験がないので新鮮です。手鏡で歯のようすを確認するとき「ぷ、ぷるぷるである!」とおどろきます。おどろくときの語尾は「である」です。鼻毛はちゃんと処理しており、こんかい大丈夫でした。 「くちびるを指でなぞられる」ってのもなかなかありません。そんなことされる関係って……すなわちくちびるNetworkです。い・け・な・いルージュマジックです。くちびるヌード。残像に口紅を。くちびるから媚薬。くちびるを通じてわたしのすべてが奪われてゆく。色づいたあたしを無意味なものにしないで。歯医者さんはスキンシップが濃密で戸惑います。やっているほうは日常なんだろうけれど。 くちの中をいじられている最中に、ときおり話しかけられることにも戸惑います。「はへ」みたいなことしか言えないから。なにも言えなくて、夏。いっこく堂さんみたいに腹話術をマスターした方なら返事ができるのかな。くちを開けていたらできないのか。どうなんだろう。いっこく堂レベルの腹話術者なら、耳から発声することくらい造作なくできるにちがいない。もはや人間じゃない。いっこく堂めっちゃこわい。 サシャ・バロン・コーエンの映画『ブルーノ』で尿道がパクパクしてしゃべる演出があったけど、いっこく堂レベルならそれも可能にちがいない。テレビではできないだけである。いっこく堂はからだじゅうの穴という穴からしゃべる生き物なのです。本物のおしゃべりなひと。むろん、ケツ話術も可能です。くちでしゃべっているふりをして、じつはケツでしゃべっていたりするタイプです。わたしの好みのタイプです。新たな段階にいる人類、つまり彼はニュータイプなのです。 3回目の歯医者さんは、...

日記598

大きな容れ物だと、大きなものを詰め込みたくなってしまう。ブログのレイアウトもそう。ぴったりしたものが好きで、行のあたまに一文字あけることはしていません。四角い文字の羅列がぽんっと置いてある光景をつくりたい。ブロックごとに掴んで仕舞えるような。それだけできれば満足です。 散らかしている。推敲や校正を他人に任せたら2000文字が5文字くらいに縮まると思う。無駄が多くて。「こんにちは」でことたりる。「ありがとう」とか。「さようなら」とか。こんなことさえ言えれば、内容はじゅうぶん。なるべく正確を期して伝われば、おしまい。またね。別れの手続き。でも不足が気になって過剰になりながらまだ不足している気もして結局わからない。仕舞いにはあきらめて手放す。仕舞えているのか。 懸命に伝えようとすると、ひっくり返って転んでしまう。足のうらが空にあこがれていたんだ。でも空は最初から足元まで接していた。そんな末路。せまいせまい空の定義だからひっくり返る。地面に立っていれば、気分はもう上空でいい。届いている。そんなに高く、遠くなくても。雲がなくても成分はここにある。 突端まで行きたい思いが強くあります。どこまでいっても釈迦の手のひらであれ、指先の際まで行けば見える景色も変わっていると思う。いつも電車は端っこの車両に乗りたくなる。ホームの端まで歩いて、歩いて。いちばん遠いところ。 京急蒲田駅の端っこには、自殺防止の看板がありました。死ぬひとは、端っこが多いのかな。なるべくひとが少ない先の先から、どこでもない、じぶんもいない先へ。先はあったの?この夜はまっすぐに進んだら、元の位置に戻ります。まるいかたちの星にいる。