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日記701

ことばは模造です。実体とはちがう。複製のにせものとしてあり、疑いをさしはさむことによってドライブする。なんとでも言えてしまう。文章はいつも疑いの明滅とともにある。疑えぬ内実に付け加えるものはない。 「信じる」ではなく「疑えない」と感じてしまう、その瞬間が重要かもしれない。なんとでも言えるはずなのに。あきらめてひれ伏すような。どうにも沈黙するほかなくなるような。はっとする。あるいは、うっかり喉に滑り込むような。 それはきっと日常のさまざまな場面に潜在している。書物の中で触れた一節に、身近な人の何気ないひとことに、街でふいに入り込んでくる音楽に、壁の落書きに、ネットの書き込みに、美術館の隅に置かれた作品に、眠りを待つあいだのひらめきに。 ひとときことばが止む。声を失う。ひとときだけ。時間が経てばまた湧き上がる。永遠にひれ伏した状態ではいられない。そんなにうっかりしちゃいられない。疑念の停止は持続しない。揺らいでいる。確固たる信にはたどりつけず、きょうにはきょうのおしゃべりが始まる。まるできのうの沈黙をあがなうように。 疑いを入れずに措く時間は、ちょっとした、罪深い愉しみなのかもしれない。そこに文字を通過する愉しみがある。ことばに耽溺する愉しみ。「ここにほんとうがある」と、つかの間ふと思う。ひとりきりの罪深い沈黙に浴す。紙の切れ端に一切を感じる。いっときの信を足がかりにして、ふたたび尽きることのない疑問へ踏み入る。信念と疑念の狭間で息を継ぐ。そんないとなみの階梯が人の生活を賦活する。 図書館のちかくで、若い男女が向かい合っていた。小雨のなか。ただならぬ雰囲気。階段の半ばにふたりとも突っ立っている。傘はさしていない。赤い髪色の女性と、マッシュヘアの長身男性。赤が泣きじゃくる。何か言いたげに下を向くマッシュ。通りがかるわたしに気づいてか、押し黙ったままのふたり。 急に雨足が強くなる。マッシュが無言で傘をひらいて、赤の上にそっとかざす。ほほえむマッシュ。赤はしかめっつら。その横をごきげんなスキップでぴょんぴょん通過するわたし。ふたりの人生の1ページに刻みつけてやるつもりで無駄なステップを踏みまくりながら階段をのぼった。これから喧嘩するたび、階段でノリノリだったおじさんを思い出してほしい。喧嘩だか別れ話だか知らんけど。わたしのことなんかハ...

日記700

8月14日(水) 朝、鏡を見ると左目の下に涙ぼくろができていました。以前にも書きましたが、ほくろが増えます。なにかの呪いでしょうか。虫を殺した数だけ増えるとか、他人に不義理をはたらいたぶんだけ増えるとか……。 さいきん不義理したおぼえはないけれど、コバエはじゃんじゃん殺しているので原因が虫殺しである可能性は残ります。いや気づかぬうちの不義理も多そうです。そういえばこの暑いのに暑中を見舞っていませんでした。だれひとりとして。2名からハガキが届いていた。暑中の舞いを部屋の中でひそやかに踊っておきますから、それでご勘弁ください。 できうるかぎり義理堅くありたいと念じながらがんばって踊ります。汗だくで。ほくろを増やさないためにも。義理は重視しておこう。しかし「義理」というと悪く思われがちです。「心のこもらない行為」みたいな意味が前に出過ぎている。「心」はうしろからついてくればめっけもんです。あくまでめっけもん。おまけ。心よ、出しゃばるな。 わたしの「義理」イメージは、容器です。カラの容れ物を関係のあいだにぴょいと据えつける。それが義理立てだと思っています。余裕があればそこに「心」を加えるもよし。からっぽでもよし。「心」よりも義理という形式をまず立てる。 お互いを受け入れるための共通の器が最初になければ、いきなり心をこめられてもどうすればよいものやら戸惑ってしまいます。渡された「心」の保存方法がわからない。べたべたしてやだなにこれキモいと思う。事前に義理を立てておけば、とりあえずそこに突っ込んどけばいい。義理立てとは、心の容れ物づくりです。 というかそもそも「心」とはなんでしょうか……。ひとつの側面として「出過ぎた意識のつんのめり」みたいなものかと、自分の感覚では思います。とにかく出過ぎな野郎です。意識よりも先にとりあえず目に見える部分をととのえたい。かたちだけでいい。たとえば、とりあえず身体を鍛える。筋トレの習慣も何らかの義理です。 話をほくろに戻します。 左目の涙ぼくろ以外にも知らぬ間にたくさん増えすぎて、しばらく会っていない人はもはやわたしを前と同じ人間だと認識できないかもしれません。双子の弟だとうそを言っても通用しそうなほどです。兄のことを問われたら「あいつは死んだよ……」と目を伏せてつぶやきます。 双子のタレン...

日記699

認知能力は時間の感じ方から狂いが生じてくるのかなと思う。少しずつ。夏もどんどんみじかくなる。としをとればみんな狂う。もし全員そうなら「狂い」ではなくて、ふつうのことか。そうね、「ふつうのこと」として考えたい。しかし誰もが同じわけはない。 「時間」という共通の容れ物が日を追うごとに、自分ひとりの容れ物へと変化してしまう。そうやって物覚えが悪くなる。記憶には、外からあらたな時間をとりこむような側面もある。それがままならなくなる。他人の話を聞くこともそう。あたらしい時間を感受できない。 若い時分はいくつもの時間の輻輳をみずからの内にとりこむことができる。多くの時を汲み取り、また編み出せる。齢を重ねると時は一本に収斂する。外れ道を、長い長い単線列車がゆっくり行き来するような。べつの時へとつながる乗り入れの経路が徐々に閉じてしまう。それはきっと、老い先の孤独であると同時に人生を賭けてちいさな自由を手に入れた状態でもある。残りの時間は、閉じた記憶に揺られるだけでいい。 人間の関係は連続的にできていないと、なんとなく感じる。これは老若問わず。その都度、その都度、一回かぎりで構築される個別的なものだと思う。顔を合わせるたびあたらしく立ち上がる。「つづき」なんてあると思ってはいけない。つぎに会う時間は、同じ人でもちがう人間。そのくらいの距離感と緊張感を保っていたい。 ほんとうは何でも一回かぎりで、断片の連続なのだけれど、つねに前回があってさらにつづきまであるかのようなふりをしている。別れ際にはいつだって、まだまだつづきがあるかのようにふるまう。 あいさつとは、ちいさなうそだと思う。うそのお芝居から始まって、お芝居でまたつなぐ。このお約束のおかげで正気が保てる。ちいさなつくりごと。芝居の合図。それで接着する。断片の隙間を埋めるつなぎがフィクションの役割だろう。 分かたれた時を折り合いのいいことばで縫い合わせる。あたかもわたしたちのあいだには関係がある、かのようにふるまうため。「かのように」の維持には、相互のがんばりが必要となる。とくにわたしは芝居が下手くそで苦手だから、そうとうがんばらないといけない。 役を演じるより、幕間の評言にうつつを抜かしてしまう。外野で野次を飛ばす第三者なら気楽でいいと思う。暑い夏の日も、夢のうちに通り過ぎてしまいた...

日記698

本屋さんへ行った。在庫検索機に「ギンガテツドウノヨル」と文字が残っていた。それを横目で確認して通り過ぎた。ここさいきんの出来事としてはまずこれを書き残しておくべきだと思う。 あと疲労のせいかたまに全身がピリピリします。針で刺すような神経性の痛みが間欠的に走る。しびれに近い。「身体って電気が走ってるんだよなー」とぼんやり実感する刺激。これは医者に言うべき事柄か。それ以外はおおむね健康です。おだやか。 おだやか。ながらも納得のいかない感情は内心に頻発しています。自分の感情であれ、他人の感情であれ。感情くんはいくら説明しても納得なんかしない。わからず屋です。おまけに欲深く、相手にするとつけあがります。かといって抑えつければ暴発します。 どんな論理でも納得がいかない。説明のつけられない。この感情とことばの不均衡だけが文章を書くに至る動機であるようにも思えます。追いかけっこ。どう足掻いても等質にはならない二要素をランダムに走らせる。文体とは、或る逃走線の軌跡です。浜辺で追いかけ合うんです。キャッキャウフフ。死ぬまで、しかもひとりで。笑けてきたらしめたもの。 将来のことを考えていると憂鬱になったので、そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。 これはネットで拾った「D・H・ロレンスの名言」です。遠くておおきな時間への不安をやわらげるためには、近くてちいさな時間へと移行するとよい。みたいな示唆が含まれています。たぶん。ものを書くことは、ここでいうマーマレードづくりです。手を動かして、時間のサイズをかたどること。 おおきな漠とした不安は消えないが、時宜を得たサイズに刻むことくらいはできます。絶えず時を細かく刻みながら、自分が苦しまずに済む間合いを保つ。目の前の出来事に留意する。それを書き留める。きょうはスーパーで背後から、「パパだいすき」という女の子の声が聞こえた。すぐさま「パパも○○ちゃんだいすきだよ~」と、浮かれた返答までばっちりだった。 しあわせそう。その意気やよし。でもそのままではいられない。どうしてだろう。やがて「パパだいすき」だけではなくなってしまう。これから先の未来、多かれ少なかれ複雑な感情を絡ませ合いながら「親子関係」が編まれていく。 それはその通りだろう。けれど、いまその未来を引き寄せてはいけないんだ。およ...

日記697

ショーン・タンの世界展。東京の練馬区下石神井にある、ちひろ美術館へ。7月28日(日)まで開催です。「どこでもないどこかへ」。それはたとえば、だれの住まう部屋にも得体の知れない先住者がいるような場所。へんな、珍獣みたいな。そのアイデアへの愛着をショーン・タンは述べる。2階の展示室の奥に書いてあった。 「得体の知れない先住者」は考えてみると、自分が生まれたときすでにいた。生き物。すべてなのだと思う。世界中にいた。この世界そのものと捉えてもいい。得体が知れない。どこか知らない隅っこに自分がいる。わたし自身もまた、得体の知れないものとして。最初からずっとここにいたみたいな、知ったような、我が物顔なんてきっとできない。どこにいても。どれだけ生きても。 プライベートな居住空間にまで妙ちくりんで理解不能なものを置く。それは世界を了解済みにしてしまうずうずうしさを、どこまでも許さない姿勢だと思った。いいかげん閉じこもって、ぜんぶわかったふりをして安心したいけれど、いつまでもおかしなやつが動きまわっている。あらゆる空間で、絶えず。この世はそういう場所なんだと感じる。どうしたものだろう。 身勝手な同化は許されない。すべてに距離がある。直接的に「わたしたち」を語ることはかなわない。「べつのものたち」を語ろうとするなかでひるがえってわたしたちの輪郭もあらわになる。ショーン・タンの作品からは、そんな感触を受ける。 発想の根底に自身の価値観を超えたものが横たわっている。理解不能なものを礎にする、その姿勢を“想像力への敬意”と呼びたい。「べつのものたち」への畏敬。そうやってタンが描き上げる世界への畏敬の念は、魅惑的で、とてもかわいくて淋しい。 角度が気になった。「向く」というしぐさ。そこがかわいらしさの発生源かに思える。登場するもの、みんなひたむきなのだ。ちゃんと向いている。向いてくれる。ときにこどもっぽく。ときに真剣なまなざしで、向く。あらゆるものに付随する「向き」をおろそかにしない。 水のない町では、空に魚が泳いでいる。 こんな一文にふと出くわす。飛ぶのではなく泳ぐらしい。なぜかといえば、水がないから。では魚の泳ぐ空とはいかなるものだろうか。水ではない、それに代わる「空」にはなにが満ちているのか。そんな疑問といつまでも向き合っていられればと...

日記696

本を読む時間より、本の背表紙を眺めている時間のほうが長い。棚を読む。書店から図書館からラーメン屋や床屋の本棚、友人の家やネットで見かける知らない人の本棚まで。それも読書だと思う。あるいは自宅に本を並べて棚をつくる、あふれたら積み上げる。すべてふくめて読書。と言い張る。 大掛かりな部屋の片付けをして、モノの配置を変更したら本屋さんみたいになった。中央に本棚がある。もちろん壁面にも。すっきり几帳面に並べ過ぎた気がする。こんなに清潔な部屋で過ごしてよいだろうか?と謎の疑問が浮かぶ。窓際の一部だけ写真を撮った。 並びは適当。もちろんすべてを読んだわけではない。後ろ暗さを心の奥底で煮詰めた灰汁のごとき渋い気丈さでもって断言したい。ほとんど読んでいない!むろんのこと読んでいない!すこしは読んだ。しかし買ったきり、ひらかず積んだままのものもある。知らないあいだに増えてしまう。ほんとうです。さらに図書館で借りるという意味不明な行動にも打って出るから読みきれない。 ところで、テントウムシがいました。 片付いた部屋に入ってきた最初のお客。人間を招き入れることは、たぶんない。虫だけが入り込める。いずれ自分も気がかりな夢から目を覚ましたあかつきには虫になっている。巨大で途方もない毒虫になる。ばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)になる。 ひどく胸苦しい、複数の夢の反乱の果てに。 7月14日(日) 日曜日は新聞の書評欄を読む。もはや新聞をとる家庭はめずらしいのかもしれない。祖母がまいにち懸命に読んでいる。「あたしの目の黒いうちはやめないの」と言ってきかない。端から指でたどりながら何時間もかけてぜんぶ目を走らせ、ぜんぶ忘れる。 あとで「新聞にこんなこと書いてあったよね」と話しかけても、祖母は「そう?そんなことあった?」とふしぎそうに首をかしげる。これはこれで老後の贅沢というか、豪快でけっこうなことだと思う。忘却する贅沢。 日曜日の書評欄だけ、わたしはまともに読む。書評はどの新聞でも興味をもって読める。図書館で書評欄を片っ端からつまみ読むこともある。祖母が読む新聞はむかしから読売。だから読売新聞の書評は欠かさず読んでいる。 さて、まず目にとまったのは中尾隆聖さん...

日記695

 読書にも古来さまざまの流儀があるようだ。中世ヨーロッパの修道院では、修道士たちが聖なる書物を繰り返し読んではひたすら暗唱に努めていた。ゴルツェのヨハネス(九七六年以降没)が詩編を唱えるそのつぶやきは、蜜蜂の羽音に似ていたという。その蜜蜂も花々から採取した貴重な蜜を、人が言葉を書きしるした紙のように、薄くやわらかだが丈夫な房室に蓄えるいとなみに余念がなかった。蜜蜂は人間よりはるかに早く、蜜の容器となる独自の紙を人知れず作りつづけてきた。人がもし蜜蜂の英知を学んでいたら、紙という偉大な発明をもっと早くになしとげていたかもしれない。p.7 鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟 または読書の変容』(白水社)冒頭より。詩を読む声が、蜜蜂の羽音に似ていたというお話。ポエティックな比喩として読むと、静けさの中で声音がわずかに空気をふるわせるような感覚だろうか。一方で、現実の蜜蜂の羽音はうるさく耳に障るものだといかんせん詩情とはかけ離れた野暮ったい想像も浮かんでしまう。 耳元へブンブンくれば、こわくて身をかわすところ。おっと蜜蜂かと思って避けたらヨハネスお前か、ごめんごめん。みたいな一場面が想起される。ヨハネスはそのたびに、肩を落とす。クソッ、どうして俺の声はこんなに蜜蜂の羽音みたいなんだ!ノイジーな声帯に生まれついたことを呪い、喉をかきむしるヨハネス。そんな彼が、ひょんなことからあるノイズバンドのライブに衝撃を受け……。 ……と、ヨハネスの成長物語はさておき。自分は神秘性に惹かれやすい。と同時に野暮ったく俗っぽい地平から足を離したくないとも思う。軸足は俗で野暮な場所にある。ふざけている。詩的なものを好むが、読んでも書いても詩性へと離陸しきれない気後れがある。詩人はきっと手の届かないところにいる。 「さよなら」を見つけたふたりは この街の心臓をかたちづくる。 詩人の文月悠光さんが目の前でサインに添えてくださったことば。もし、わたしが書く側だったとしたら「なーんつってな!!プリプリ~」と三行目に記すことだろう。そして吉田戦車の漫画『ぷりぷり県』の主人公「つとむ」をうろ覚えで描いて、署名は「吉田戦車」とする。澄まし顔でサインなんかできっこない。 なんというか、「真面目さ」に耐えかねる。表情を変えたい。でも詩人は真顔で言い切る。「さよなら」を見つけたふた...