郵便の誤配達があった。近くの郵便局まで返しに行った。受付のお姉さんに「申し訳ございません」とあたまを下げられてしまう。ネガティブな雰囲気が嫌で「たまにはこちらからもお届けしないと」なんつって笑っておいた。気の利いたことが言えると、自分も捨てたもんじゃないと思える。 しばらくして配達員のおじさんが訪ねてきた。間違いに気づいたそう。「局まで返却しに行きました」と伝える。困り顔の働くおじさんを見送った。しょんぼりした眉毛だった。いいよ、そんな日もあるよ、と思いながら丸い背中を目で追った。 自分のふるまいをかえりみると、他人に対しては妙に明るいところがある。いっぽうで自分自身に対しては妙に悲観的なところがある。そうやって精神の平衡を保っているのかもしれない。 気が狂っていない限り、人間の精神はたぶん平衡状態へ向かおうとする。恒常性を保つ力学が根底にある。逆にいえば、その平衡が破れると気が狂う。恒常ではいられなくなる。 行きつ戻りつ。自分にとって書くことはまず、そうやって矛盾と向き合うことだ。千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)を読んでいるとき、ふと思った。人は矛盾を回避しようとする。そこで安易な物語化のこじつけが起こるのだという。 おそらく、何年も日記を書き続けていれば自分の思考と行動の矛盾は回避できなくなる。体のいい物語は早晩、破綻する。矛盾を避けようとすればするほど嘘くさくなってしまう。もう、仕方がないから引き受ける。どこかの時点で、かならずそうなる。 わたしは矛盾を避け続けられるほど器用ではなかったせいもある。自己矛盾と向き合うことは認知的な不快感をともなうだろう。この「不快感」が引き受けられなくなったら、書くことをやめてしまうのだと思う。 生きているということはまず不快で、そのために読んだり書いたり歌ったり踊ったり飛んだり跳ねたり笑ったり泣いたりできる。そう思っている。いまのところは。悲観ではなく、現実の解釈として。まず「不快である」という、そこを勘違いしてはいけない。鳥が空を飛べるのは、空気抵抗のおかげでもあるように。 日記は、時の空欄を文字で埋める作業だ。空欄がこわいから。しかし空欄はあくまで空欄だった。この世界にはもともと物語も因果も文法もない。たぶんね。いくら書い...