わかっている部分がないと、「わからない」も見えてこない。どこまでがわかっていて、どこからがわからないのか。「わかる」と「わからない」はつねに隣り合わせが望ましい。わかった瞬間に、次の疑問が芽生えるような。魔法がとけたと思った瞬間、べつの魔法にかかってしまうような。 「わかんないことがわかんないくらい好きみたいです」と、かつて松浦亜弥は歌った。世に名高い「桃色片想い」の一節である。「わかんないことがわかんない」状態はつまり、一方通行の片想いなのだ。桃色の。あやや曰く、「夢にだって出ちゃって来ちゃいます」。なるほど、なんかこう、漏れ出しちゃう感じのイメージなのかもしれん。「わかんない」が異常に昂ぶると、思考が滲出してしまう。出ちゃって来ちゃう。お漏らしである。 で、おそらく「わかる」もボルテージが上がると漏れる。溢れかえる。この真実をみんなに知らせなきゃいけない!と。こっちもやはり、出ちゃって来ちゃいます。つまり両方とも、行き過ぎると覚醒作用がある。目覚めてしまう。平常心はそのあわいの、「わかるようなわかんないような気分」なんだと思う。 世の中、わからない。しかし、まったくわからないわけでもない。わかるようなわかんないような感覚でとりあえずゆらゆら生きている。すくなくともわたしはそう。あんまりわかっちゃうのも、あんまりわかんなくなっちゃうのもよくない。なぜなら、出ちゃって来ちゃうから。 「わかる/わからない」の調整弁として人は、神さまみたいな何かを必要としてきたんじゃないか。神さまでなくてもいい。究極的にわかっていて、究極的にわかんない何か。意味の限界点というか。そういう外っかわがあるおかげで、わたしたちはひとつの輪郭を保っていられる。 「漏れる」ってのは、輪郭のゆらぎだと思います。輪郭はつねにゆらいでいて、人はいつも何かを漏らしている。でもぜんぶは漏れない。漏れ出す明るい部分と、漏れない暗い部分がある。見える部分と、見えていない部分。 ぜんぶ漏れると、わたしのかたちがなくなってしまう。だから、出ちゃって来ちゃう状態は危険だ。輪郭がガバガバになっている。恋は人をガバガバにしがち。わかり過ぎるし、わからな過ぎる。それもたまにはいいけれど。 勢いでだーっと書いた。読み直すと抽象的すぎて意味不明だ。これこそ出ちゃって来ちゃってる文章かもしれない。お漏らしである。一行でまとめる...