ちょっと前の、刑務所からひとりが脱走した事件のニュースで、警察が逃げる受刑者を追いかける際に「待てー」と叫んだそうですが、なにか逃げるものを追いかける際、たいていはそのとおり待つはずもないのに、ひとが「待てー」と言っちゃうのはふしぎです。銭形警部ごっこでしょうか。「むぁーてルパーン」とわたしだったら言いたくなりそう。だみ声で。 何年か前に出会った、逃げた飼い犬を追いかけているらしきおじさんのことを思い出します。「犬、見かけませんでしたか?」と不意に聞かれ「なんか向こうにいましたねー」とわたしがこたえると、おじさんは大声で「待てー」と叫びながら走り去っていったのです。ふしぎです。漫画みたい。 まず犬に「待てー」と話しかけても、相当しつけが行き届いていなければ通じません。とはいえ犬が目に見える範囲にいるのなら、まだわかります。おじさんは、そもそも目の前に逃げた犬がいないにもかかわらず「待てー」と声を張っていました。虚空に向かって。そうか、ああ。いま「虚空」と書いてみてなんとなく腑に落ちました。あれは、祈りだったのかもしれない。 ことばは、コミュニケーションのためだけにあるのではなかった。ふとした瞬間、ひとは祈ってしまう。それと知らずに、こいねがうものをことばにしている。対応物が具体として存在しない、からっぽなことば。その場にいない犬への「待て―」は、届かぬ願いです。逃げる受刑者を追いかけるときの「待てー」には、もうすこし容量が入っているけれど、これにもカラの祈りが混ざっている。 銭形のとっつぁんが「むぁーてルパーン」と言うのは、祈りもありますがコミュニケーションの要素が大きいと思う。ルパンも待たないけれど、あのふたりは知り合い。名前を認識しあっている。銭形警部の声も、ことばの意味も、ちゃんと伝わったうえでルパンは逃げている。「待て」への回答として。その回答を銭形も了解し、楽しんでいるふしがある。つまりは「ごっこ」です。 ことばのフィクショナルな領域を了解し合い、その土俵にお互い乗って伝達し合う。コミュニケーションはすべて「ごっこ」だと以前、じぶんで書いていたことを思い出しました。 脱走した受刑者に警察が「待てー」と言うのは、「ごっこ」というフィクションの構図をつくろうとしていて、やっぱり祈りよりもコミュニケーションを図ろうとしたのかなー。犬...