図書館の本を読まずに返す。なんかいそがしくて読む時間がない。「いそがしい」は、かんたんで便利なことばです。万能ネギくらいの便利さ。どんなことばも単純化の産物です。ことば(概念)に頼りすぎると単純になる。個別にものを見すぎると細かく複雑になる。たとえば「空が青い」。単にそれだけの瞬間なんてない。この空はどう青かったか。いかに歩き、見上げたか。何月何日の何時だったか、気温はどのくらい?となりには誰がいた?赤信号で立ち止まって、手持ち無沙汰に撮った写真だった。高架の上にたまたま空があって、それが青かった。やがて車の道行きが止み、信号の色が変わった。歩きながら「なんか景色がきれいに見える」「それはね、夏の魔法ですよ」と会話を交わして、笑った。すこし時間を遡る。陸上自衛隊目黒駐屯地の付近でなにやら怒り狂っているおじさんがいて、横を通り過ぎた。歩きながら友人が「さいきん読んでいる本は?」と尋ねてきたタイミングで、おじさんの激しい怒鳴り声が響いて会話の流れが分岐した。本については伏せて、うしろを指し「すげーハッスルしてんね」と言った。「ラッパーになればいいのに」とことばが流れた。しばらくしてまた本のことを尋ねられ、ミランダ・ジュライの新刊が出たから過去の作品を図書館で借りた、とこたえた。その本をきょう、読み終える前に返却した。 くだらないことを書くようだけれど、過ぎた時間はもう二度とこない。ほんとうにくだらない。でもこれを体の芯から自覚できることはない。やろうとするが、気が狂いそうになる。足がすくむ。比喩ではなく立っていられなくなる。過去も未来も死と密通しているから、きのうのこと、あしたがくることも、忘れていまだけがあればいい。 忘れたい。もしかしたら、わたしは部分的に記憶力がよいのかもしれない。変な細かいことを、ずっとおぼえている。ごく一部。なんの変哲もない会話、歩いた情景がそのまま映像として浮かぶ。 かもめブックスからの帰り「友人の名前がチンコだったとしても、わたしは馬鹿にせずちゃんと呼ぶから」と空いた電車の優先席に座って話した場面。わたしがカバンにつけているチンアナゴのピンバッジから飛んだ会話。席は3人がけで、じぶんは真ん中にいた。左側に友人。右にはお婆さんが途中から座ってきた。向かいに本を読むメガネで帽子のおじさんと、スマホをいじる太ったおじさんがいた。...