スタイルとは何の盾もないことだ。 スタイルとは何の見せかけもないことだ。 スタイルとは究極の自然らしさだ。 スタイルとは無数の人間がいる中でたった一人でいるということだ。 チャールズ・ブコウスキー『ワインの染みがついたノートからの断片』(中川五郎 訳、青土社、p.275)。自然な態度がいちばんむずかしい。ここでは「自然らしさ」と訳出されている。おそらく、まっさらな自然はありえない。あくまで、らしく。「無数の人間がいる」と「たった一人でいる」が不可分な関係にあることとも並行的なのだろう。純粋なひとりにはなれない。無数のなかに混入する、不純なひとりとしてありつづけること。 「ひとり」という不純さ。ひとりでいるなんて、まったく不純です。人と交われないと、「ちがい」に向き合わざるをえない。ちがっていると居心地が悪い。うまくごまかしたくなる。浮き上がった不純な自己をごまかさずにおける人はセクシーだと思う。ブコウスキーのことばはエロい。無防備な孤独と、性的な魅力は深く関係している。すくなくともわたしのなかでは。 性差の別なく、人の魅力はそこに尽きる。生死の別もない。仏陀とかもセクシーだと思う。孤独だから。というか、孤独な瞬間は誰にでも訪れる。どうにもごまかしのきかないとき。そこにそれぞれの「スタイル」があらわれる。ブコウスキーは自分の魅力をいっさいごまかさなかった。孤独を厭うことは、自分の魅力を厭うことではないだろうか。 かくいうわたしは、ごまかしごまかし生きている。あんまり魅力的でも罪深い……。「罪な人」などとよく言われるように、魅力と罪も深く関係する。そして孤独も、あがないきれない罪悪感と切り離せない。「自然らしさ」は「罪人らしさ」と言い換えることができるかもしれない。 スタイルとは自己の罪状を肯定することだ。 5月31日(月) 帰りに一杯やりたい人って多いんだなーと、路上飲みの集団を横目に思う。わたしはとにかく帰りたい、家にいても頭の片隅で「帰りたい」と念じているような人間なので、街にあふれる「一杯やりたい」の情熱がわからない。帰りたい。 夜7時ごろ、東京都の宣伝車を見かけた。「緊急事態宣言が出てるから家に帰れ」みたいなアナウンスを垂れ流していた。わたしの前を歩くおじさんふたりはそれをチラ見して中華料理屋に入った。膝に水が溜まってどーのこーのと大声で話し...