「意識する」を意識してみる。意識って「する」のだな、と改めて意識すると新鮮だ。「野球しようぜ!」みたいなノリで「意識しようぜ!」と言いたくなる。「野球しようぜ!」はつまり、「野球を意識しようぜ!」ってことだろう。「なにかをする」とはすなわち「なにかを意識する」ことだ。わたしたちは意識をさまざまに変形させながら生きている。意識プレイングゲームみたいなものだと思う、人生って。コントローラーは共用なのよね。ひとり用ではない。 ……で、またラルフ・ジェームズ・サヴァリーズの『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)から、メモしておきたい。 ローラン・モトロンの知覚機能亢進説によれば、自閉症者はこのようなレベルの入力を利用する能力が高い。その入力は意識に上りやすいだけでなく「トップダウンの処理に関して……より自律的である」。言い換えれば、彼らの前頭葉は感覚情報を人種や民族のカテゴリーなど優先的な高次の要素の下に即座に振り分けたりしない。おそらくその結果、個別化が行き過ぎる。逆に、ニューロティピカルは、少なくともその多くの人は、個別化をしなさすぎるという問題を抱えている。ニューロティピカルは他者について単一感覚による表象を持つ。それゆえ、彼らの自然な処理傾向を克服するには、多感覚による効能促進剤のようなものが必要なのである。 自閉症者は「視覚に関係する皮質領域の活性化が増大」し、「前頭皮質の活動が低下」している――別の言い方をすると、局所的な接続が過剰で全体的な(離れた領域との)接続が不足している――という説明は、考えてみると皮肉である。ニューロティピカルの脳について、科学者は適切に接続された脳と考えているわけだが、その脳が生み出す社会は、少なくとも現実に存在する特徴に関しては、けっして適切に接続されてはいない。p.235 へたな抜き出し方で申し訳ない。ここだけ読むと文意がとりづらいかもしれない。 ようするに自閉症者は個別化が行き過ぎ、そうではない人は一般化が行き過ぎる傾向があると。具体と抽象のちがいともいえる。「考えてみると皮肉である」の含意は、自閉症者のほうがよほど具体的な現実を生きているんじゃないの? ってなところか。ニューロティピカル(定型発達者)は適当にかっ飛ばして考えるのが得意なのね。だから物事を高速に処理でき...