著作権の保護期間が著作者の死後50年から死後70年に延長されるそうです。わたしは青空文庫などの、著作権切れの文献を気前よく公開してくださる取り組みが好きなので、これには直感的に残念に思います。 著作権については、雑なことを書くと、いまのところ権利自体はあってもいいが、グレーさを保ったゆるやかな法運営がのぞましいと思います。もっと雑に書くと、まだすべては過渡期だと思う。なにより、著作権の保護の下にあろうがなかろうが作品自体の価値は変わらない。希望としては、過去の文物が未来の人々にも容易に伝わりやすい法制度がいい。文化の価値を決めるのは、現在のひとだけではない。 わたしがネットにあげているものは文章も写真も勝手になんでもどうにでもしていただいてかまいません。したいひとがいるならば。わたしの記事には引用も多いけれど。それと明示せずに歌詞などの一節を忍ばせていることもある……。 わたし自身がなんでも取り入れちゃうタイプなので。めんどっちいな。ことばは、どこまでがじぶんで、どこまでが他人なのか、なんて考えだすとわけがわからなくなります。きっぱりとした区別なんかできっこありません。でもケチなことも言いたくありません。 詩人のボードレールが書いた唯一の小説作品『ラ・ファンファルロ』に登場する、サミュエル・クラメール。彼の考え方に、ちょっとした共感をおぼえるのです。 サミュエルにとってごく自然な悪癖の一つは、自ら讃嘆の対象となし得た人々と対等な者と己をみなすことであった。見事な本を一冊夢中になって読み終わった後で、思わず下す結論は、これは私が書いたとしてもはずかしくないほど立派だ!というのであり、――そうなればあと、だから私が書いたのだ、と考えるにいたるまでは、― ―ダッシュ一本 の距離しかない。 ダッシュ一本の距離、ごく自然な悪癖。こんな気持ち、わかるひとにはわかるのではないかしらん。ここまで尊大ではないにせよ、好きな著作者と、いつの間にか思考が同一化しているじぶん、がたまにいます。あとで読み直してはじめて気がつくことも、多々ある。「あれ?これってあのひとも書いてなかったっけ?」みたいな。 わたし個人は、文章をまるまるぱくられたってかまいません。「わ~じぶんとおなじことを書いているひとがいるよ~すご~い」と無邪気に感動しちゃう。でもリンクと...