7月30日(月) 忘れることが始まって久しい、親戚のおばさんっていうのかな、もうおばあちゃんなのだけれど、お会いしたらずっと笑っていたから、よかった。血縁があるのは、おじさん(夫)のほう。家にお邪魔をする。わたしのことは、「わかんない」って。たとえば、じぶんの母親の記憶がなくなり「あなた、だあれ?」と言われるとして、かなしくなるのかなーなんて、ときおり想像してみることもあって、この日の経験から、その想像が以前より具体化できるようになった気がする。 だれの顔も、なにもかも忘れられたって、そのひとが笑顔でいるのならそれはそれで救われるのかな、と。ずいぶん安心すると思う。すくなくとも、わたし個人の気持ちはその表情だけでとても安らぐ。内心がどうあれ(「内心」なるものがあると仮定して)、表情だけでも苦しくなければ。 ことし仕事を完全にリタイアしたおじさんの介護を受けながら、穏やかそうなひととき。バームクーヘンのかけらを、1時間ちかくかけてすこしずつ食べていた。わたしのおみやげも「おいしい」と、ささやくような声でつたえてくれる。なんとなく、いたずらっぽく馴れ初めを聞いてみると、夫婦ふたりで顔を見合わせて笑う。この瞬間がよかった。ふたり同時に照れたような、面映ゆい。 こどものいない夫婦だから、お父さんお母さんの馴れ初めは?みたいな質問を受けたことがなかったのかもしれない。こども、できなかったのか、つくらなかったのか、それはわからない。いないだけ。それでもいい。理由は知る必要もない。理由自体の必要もない。ふたりにとっては、あたりまえのこと。 この日はちょうど朝、生まれたひとがいて、うけとったその写真を見せる。また夫婦で笑ってくださる。おばさんは、ことばを掴み出して口を動かし表現するところまで、なかなか、いかないみたい。しかしことばがあつかえなくとも、それ以外は十全に息づいていると思った。おばさんに「いまもいい女だなあ」とおっしゃるおじさん。なにも言わない笑顔のおばさん。耳に届いていたのか、それも定かではない。「いい女」ってセピア色の響きがする。もはやレトロ。 夫婦の歴史を聞く。おじさんの明晰な語り口のせいもあってか、過去のふたりの時間がすべて、いま晩年を過ごしている一室につまっていたように思う。物語とはこういうことだとなんとなく思う。たったひとつの...